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プトレマイオス朝 プトレマイオスちょうPtolemaios; Ptolemaic dynasty

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

プトレマイオス朝
プトレマイオスちょう
Ptolemaios; Ptolemaic dynasty

アレクサンドロス3世の将軍プトレマイオス1世ソテルに始まり,史上名高いクレオパトラ7世にいたる約 300年間エジプトを支配したマケドニア人の王朝(前323~前30)。ラゴス朝とも呼ばれる。ファラオの時代に確立していた中央集権的官僚機構を受け継ぎ,プトレマイオス2世フィラデルフォスプトレマイオス3世エウエルゲテスの時代にはキプロス,パレスチナ,シリア,小アジアにまで版図を広げ,ヘレニズム時代最大の繁栄を築いた。首都アレクサンドリアを中心としてギリシア文化の導入が進められ,アテネに代わってアレクサンドリアがヘレニズム文化の中心地となり,文献批評学はここで始められた。しかしプトレマイオス4世フィロパトルの頃から王朝の衰退は始まり,前217年のラフィアの戦いでは,セレウコス朝アンチオコス3世を破ったが,それ以後対外的には影響力を失い,セレウコス朝との対立,同時に先住民の独立運動に悩まされ,王位をめぐる宮廷内の陰謀が激化した。その後しだいにローマの干渉に屈し,王朝末期のクレオパトラ7世は,ガイウス・ユリウス・カエサルの愛人となり,カエサル死後マルクス・アントニウスの妻となって王朝を守ろうとしたが,前30年クレオパトラはアントニウスのあとを追って自殺,その子のカイサリオン(→プトレマイオス15世カエサル)が殺害されたのち,アレクサンドリアをオクタウィアヌス(→アウグスツス)に占領されて,エジプトはローマの一属州となった。

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デジタル大辞泉の解説

プトレマイオス‐ちょう〔‐テウ〕【プトレマイオス朝】

Ptolemaiosヘレニズム時代のエジプトを支配したマケドニア人の王朝。前304年にアレクサンドロス大王の武将プトレマイオス1世が建国。首都アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心地として栄えた。前30年、クレオパトラの死によって断絶。

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大辞林 第三版の解説

プトレマイオスちょう【プトレマイオス朝】

ヘレニズム時代のエジプトの王朝(前304頃~前30)。アレクサンドロス大王の死後、侍従のプトレマイオス(Ptolemaios 前367頃~前283)が建てた。首都アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心地として栄えたが、クレオパトラの時、ローマに征服され滅亡。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

プトレマイオス朝
ぷとれまいおすちょう

ヘレニズム時代のエジプト王朝(前305/304~前30)。全15代、初代のサトラップ(太守)時代を含めて294年間続いた。ヘレニズム四王国のうちもっとも栄え、存続期間も長い。創建者はマケドニアの貴族ラゴスLagosの子で、アレクサンドロス大王の部将だった自称「ディアドコイ(後継者ら)」の1人、プトレマイオス1世Ptolemaios (在位前305/304~前283/282)。家門からラゴス朝ともいう。
 マケドニア人王家の下、来住のマケドニア人、ギリシア人が官僚や傭兵(ようへい)として支配層に参加し、エジプト人は被支配民とされて完全な外来者支配型の国家がつくられた。初期には東地中海に攻勢を持し、小アジア南域(カリア、キリキア)、キプロス、エーゲ海の島々、西方のキレナイカ(リビヤ)まで領域を伸張。国内経営も充実し、エジプト史始まって以来の国土活用が進められて、ヘレニズム諸国中第一の富を誇った。全国土はすべて王個人の所有物という原理で、穀物、植物油、畜産品、林業、織布、ビール醸造、パピルス製造など全産業の王家による独占体制が確立され(収税法)、神官層以外のほとんど全住民が「王の農民」ないし「ヒポテレイス(役民)」としてこの生産体制に稼働された。在地の諸神殿や祭司層には特権を認めて支配に協力させるなど、収奪以外はファラオ時代以来の伝統社会をなるべくいじらず、ギリシア化政策もことさらな差別政策もなかった。ギリシア風な市民法の都市としてはアレクサンドリアとプトレマイス(中部)しか新設せず、これらは行政上「コーラ(国土)」には含まれなかった。首都アレクサンドリアにはプトレマイオス2世(在位前285~前246)治下古代随一の大図書館が竣成(しゅんせい)し、以後当市は古代世界の学問の中心となった。
 紀元前3世紀後半以後は英主が出ず、軍事的失敗や外交の拙劣、加えて原住民反乱が続発し始め、国力は急速に低下する。南のテーベ地方は前2世紀初頭以来蜂起(ほうき)の巣となり、上エジプトは前85年に至るまでほとんど失われ続けた。各地に起こった反抗は民族的対立というよりも、官憲の悪政によるものだった。過重負担と安易な徴税請負方式とが民力を極度に疲弊せしめた。租税未納にあえぐ民衆はしばしば逃亡した。負担を宥免(ゆうめん)し恩典を約束する「宥恕(ゆうじょ)」が頻繁に渙発(かんぱつ)されたが、真意は収奪確保のためであった。そのもっとも早い例は有名なロゼッタ石刻文(前196年の神官総会決議)のなかにもあるが、それは土着勢力に対する徐々の譲歩で、王権の後退を示すものであった。前2世紀以降一般にエジプト化の様相が色濃くなってくる。最大の害悪は王家そのものの内部腐敗だった。2世に始まる王の姉弟(兄妹)婚は、ごくわずかの例外を除いて4世以降しだいにこの王家の近親相姦(インセスト)の伝統として定常化したが、姉と姪(めい)とを妻にした8世閨室(けいしつ)の複雑な関係は、骨肉の内訌(ないこう)が国家の全面的内乱(前132/131~前124)にまで発展した最悪の事例である。近親相姦による共同統治者としての母や妻の権勢は、末期王朝の国政をしばしば彼女らの影響下に置いた。もっとも致命的な失策はローマへの対応であって、ローマとは最初から友好関係を続けてきたが(前273修好。第二次ポエニ戦争には中立)、これが前2世紀以降かえってその干渉を招く結果となった。加えて、内争や財政難への救いをローマに頼ったため、王国をローマへの従属に陥れた。最後はローマの外圧によるクレオパトラ7世(在位前51~前30)の悲劇を残して、王朝は滅亡する。[金澤良樹]

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