生没年不詳。古代ギリシアの叙事詩人。紀元前740~前670年ごろの人。ホメロスと並ぶ二大叙事詩人として後世まで長く尊重された。ホメロスが作品の背後に姿を没し、その実在さえ疑われているのに対し、ヘシオドスは実在の人物であり、作品にあからさまに自己を表出する、ギリシア文学における最初の個性といわれる。自由闊達(かったつ)で娯楽性に富むホメロスに対し、彼の作品は宗教的、教訓的な点で著しい特色を示す。彼に帰せられる作品は多いが、完全な形で伝えられているのは『神統記(しんとうき)』と『仕事と日々』の二編のみで、他は断片にすぎない。これら断片のうち、神々との交合によって英雄たちの母となった名婦たちの系譜を歌い、内容上『神統記』に接続する作品と考えられる『名婦伝(カタロゴイ)』断片は、近年パピルス文書の多量出土により飛躍的に充実し、この作品のおおよそを推測することが可能となっている。彼の名の下に伝わる『ヘラクレスの楯(たて)』は真作ではなく、後代の別人の手になるもの。
作品中の自伝的記述を総合すると、彼の父は小アジア沿岸のギリシア植民市キュメで農耕のかたわら貿易業を営んでいたが、窮乏のすえギリシア本土に渡り、ボイオティアの寒村アスクラに移住し農業で生計をたてていた。この父には2人の息子、ヘシオドスとペルセスがいた。ヘシオドスはアスクラからほど近いヘリコン山の麓(ふもと)で羊の世話をしていたとき、ミューズの霊感を受け詩作の道に入った。『神統記』はヘシオドスの詩人としての生涯の最初期に生み出された作品。彼は自ら畑を耕す実直な農民であったが、晩年には専門詩人として吟唱の生活を送ったとみられる。父の死後生じた兄弟間の遺産配分をめぐる争いは彼に大きな影響を与えた。人間としてなすべき労働に精を出さない無頼の兄弟ペルセスに勧告し訓戒する形式をもつ『仕事と日々』は、おそらくこの事件に触発されて成ったものと思われる。後代の伝承によれば、ヘシオドスはのちにロクリスのナウパクトスで殺されたという。『神統記』は、ギリシア人の信仰する無数の神々を体系的に整理し系統づけたもので、それは単なる神々の系譜物語ではなく、大地、海、山、天、星辰(せいしん)などいっさいを含むこの宇宙、世界がどのように整理され、生成するに至ったかという秩序世界の成立を問題としている点で、後のギリシア哲学の形成に大きな影響を与えた。『仕事と日々』は、労働の尊さと、自然と人間を含む全宇宙を貫く秩序原理としての正義を勧告する詩で、形式のうえで不正な兄弟ペルセスらに直接向けて語られてはいるが、人間一般に対する教化啓発を目的とする教訓詩である。
作品のなかには若干の方言的要素が認められるが、用いられた言語は、ホメロスと同質の伝統的叙事詩語である。
[廣川洋一]
『松平千秋訳『仕事と日』(岩波文庫)』▽『廣川洋一著『ヘシオドス研究序説』(1975・未来社)』
古代ギリシアにおいてホメロスと並び称せられた前700年ころの大詩人。生没年不詳。伝統的叙事詩の言語を用いているが,ホメロス派の詩風とは趣を異にして,詩人自身の現実や価値観を直截な表現に託している。彼自身の言葉によれば,父は小アジアのアイオリス人の植民地に住み,船を操り貿易を業としたが,のちボイオティアの寒村アスクラに移り住み,ヘシオドスとペルセスPersēsの兄弟はそこに生育した。《神統記》序詞によれば,ヘシオドスがヘリコン山の山腹で羊飼いの暮しをしていたとき詩神(ムーサたち)が現れ,彼に詩人になるようにと月桂樹の杖を与え,声と言葉を吹きこみ,人間の来し方行く末の偉業をたたえ,とこしえなる神々の族に賛美を尽くすようにと命じたという。ギリシア最古の天地誕生の歌であり神々の系譜詩である《神統記》はこうして生まれた。また後作の《農と暦》によれば,父の死後遺産分配をめぐって兄弟の間に諍(いさかい)が生じ,ペルセスは自分の取分を費消した上に,訴訟を起こし裁判官を買収してヘシオドスが得た遺産をも占有しようと試みる。《農と暦》はペルセスに対してその心得違いをさとし,日々の篤実な農の営みと正義を尊ぶことこそが,地上に生きる人間の歩むべき真の道であることを,神話や多くの格言を交えつつ説いている。
みずからの世界を語るというヘシオドスの詩風は,その後ギリシア抒情詩の基調として継承され,また壮大な天地誕生や神族成立の思念は,初期ギリシアの自然観,神観に深い影響をとどめた。ペルセスに対する正義の教えは広く古典期ギリシアの社会に伝わり,法の思想の礎となっている。また他の作品《名婦の系譜》は,現在断片的に伝存するのみであるが,女性の系譜を中心にギリシアの英雄伝説を体系化したもので,後世の詩人たちに豊富な素材を提供したのみならず,ギリシア神話集成の基本骨格となったことが知られている。
執筆者:久保 正彰
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前700頃
古代ギリシアの詩人。父はアイオリスのキュメの人で,のちボイオティアのヘリコン山麓に移住して農業を営み,ヘシオドスとペルセスの2人を生んだ。ペルセスは怠惰で放縦,貴族たちに取り入りヘシオドスを苦しめたので,ペルセスを戒める意をこめて,農業労働の尊さと日常生活の心得とを教える詩編『労働と日々』を書き残した。『神統記』も彼の作とされるが,この詩の末尾の部分を真作とみることには異説も強い。
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… 古代ギリシアにおける貴族支配は,しかしながら貴族と平民との身分差が小さいところに特色がある。この事実を示すのがボイオティア生れの詩人ヘシオドスの作品《労働と暦日(農と暦)》(前700ころ)であって,それによれば農民たちは貴族の政治的支配に服しながらも,社会的には土地および奴隷の所有者として,ほぼ対等の立場にあった。ヘシオドス自身が示すような平民による仮借ない貴族批判も,このような社会的状況のたまものであり,またそこにこそポリス民主政成立の歴史的前提があった。…
…ものは犯した不正のゆえに時の秩序に則って相互に罰しあうのである〉(シンプリキオス《自然学》)。ト・アペイロンを基礎においたこの宇宙論的哲学の背後にはヘシオドスの神話的宇宙論があると考えられる。この詩人は宇宙の始原状態をカオス(一種の混沌)と見なし,そこからまず女神ガイア(大地)とエロス(恋の神)が生まれ,つぎにガイアは自家生殖によって男神,天を生み,さらにエロスによってその天と交合して生産をおこない,宇宙が成立する運びになっている。…
…元来は〈秩序〉,もしくは〈秩序正しい状態〉を意味し,カオスchaos,すなわち〈混沌〉に対立する。古代ギリシアにおいて,神話的な世界創成はヘシオドスの《神統記》までさかのぼることができるが,そこでは,すべてに先立ってカオスが設定されており,その生成は不問のままである。
【コスモスの発想】
カオスに対して,この世界を秩序正しい構成をもつものとしてとらえ,それをカオスなる原初形態から何らかの原理に基づいて編成されたとする考え方は,すでにヘシオドスにもあって,一種の宇宙開闢(かいびやく)説として,エロスを中心とする神話の世界もそこに重なるが,コスモスという語を意図的に用いて,宇宙全体の秩序ある様態を表現しようとしたのはピタゴラスが最初であるといわれる。…
…ホメロスの詩に活動するギリシアとトロイアの勇士たちは英雄の典型と考えられた。前700年ごろのヘシオドスは《農と暦(仕事と日々)》の中で,人間の歴史を,金・銀・銅・英雄・鉄の人間が次々に出現した五つの時代としてとらえ,英雄はテーバイ攻撃やトロイア攻撃で死に,その中の一部は〈福者の島〉で幸福な生活を営んでいると歌った。これは英雄時代を現代の前にあった歴史的時代の一つとしてとらえる最初の考え方であった。…
…〈混沌〉と訳される。この語の初出は前700年ころのギリシアの詩人ヘシオドスの《神統記》においてである。そこではカオスは宇宙形成の原初に出現したとされるが,語義として〈口を開けた空間〉が推定され,天と地の裂け目を意味するとみられる。…
…ついでその及ぼした影響についてみれば,まずギリシア文化そのものにおいて,およそそのすべての文化的達成の母胎であったことが指摘できる。古代ギリシア文学はホメロスとヘシオドスとの圧倒的影響下にあるが,これら両人の創造の前提はほかならぬ神話であった。壮大な神殿は神話に活躍する神々の住居であり,彫刻は神像の描出に始まった。…
…VIおよびVIIについては〈ビザンティン文学〉とこの項末尾の記述を参照されたい。
【I叙事詩成立の時代】
ミュケナイ時代の記録には文学の痕跡は発見されていないが,前8世紀以降台頭するホメロス,ヘシオドスらの叙事詩文学の最初の萌芽は,前12世紀以降の〈暗黒時代〉に諸地を歴遊した吟遊詩人(アオイドスaoidos)の語り物技芸に発する。今日伝わる両詩人の作品は初期イオニア方言をおもに用いた職業的詩人たちの間で口承の語り物として成立し,彼らの間で代表的レパートリーとして発展・熟成の過程をたどった。…
…これはトロイア戦争を題材とする膨大な叙事詩群の一部をなすもので,紀元前8世紀ごろ成立したとされるが,実際にはそれ以前から長期にわたって吟遊詩人によって語り伝えられていたものらしい。これら英雄や神々の物語とは別に,庶民の日常生活に根ざしたヘシオドス(前700ごろ)の《農と暦》や,神話伝説を整理した《神統記》もある。抒情詩を代表するのはアルカイオスと女流詩人サッフォー(ともに前7世紀)で,ついでアナクレオンが出るが,いずれも古くから伝わる独唱歌の様式を踏んでいる。…
…英雄の行為にたいする賛美,説話性,事件の全貌に精通した明察者という立場を前提とする詩的ディスクール等々,叙事詩の特質とみなされる要素は,すでにホメロスのなかにすべて強力に現れていた。ホメロスに少し遅れて登場したヘシオドスには,ホメロス的な英雄伝説を扱った作品もあるようだが,叙事詩人としての彼の功績は,宇宙創世の秘密を究めたり,最高神ゼウスの力の根源を探ったりする《神統記》において,また農耕生活の正しいありかたを述べた《労働と日々》において,叙事詩の領分を拡大したことにあると言えよう。 その後,古代ギリシアにおいて叙事詩の伝統はあまり強力に受けつがれず,前記の二大詩人のあと消滅したにひとしいが,しかしギリシアで形成されたこの文学ジャンルは,やがてローマ文学を豊かにする重要な糧となる。…
…前700年ころのギリシアの詩人ヘシオドスの作品。原題の《テオゴニア》は〈神々の誕生〉の意。…
…【米田 賢次郎】
【ヨーロッパ】
[古代]
古代ギリシアの農耕,牧畜,航海によって生活する者たちの間では,鳥獣の営み,植物の生育と落,早朝・夕刻に地平線に昇り沈みするすばるやオリオンなどの星座などによって四季の推移を知り,また月の満ち欠けによって月や日を数えることが太古からの生活の知恵であり,それぞれの数え方が口碑として継承されていたことは疑いない。そのような生活者の〈暦〉そのものは今日伝存していないが,農事暦の内容を文学作品の中に大幅にとり入れて勤勉の教訓を垂れているものが,ヘシオドスの《農と暦》である。ここでは麦作を中心とする休耕田農業が,秋の耕作,播種,冬の夜仕事,春のブドウの剪定,初夏の収穫の順で,四季の目印に従って告げられ,勤勉な農夫の心得が説かれている。…
…前700年ころのギリシアの詩人ヘシオドスの作品。《労働と日々》《仕事と日々》《労働と暦日》などの訳題もある。…
※「ヘシオドス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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