フランスの化学者。イタリアに近いサボアの移住者の家の出。トリノ大学で医学を(1768年、医学博士)、パリのマケールらに化学を学ぶ。科学アカデミー会員(1780)、学士院会員(1795)、国立ゴブラン製造所長官および染色工場監察官(1784)、理工科大学校(エコール・ポリテクニク)の設立(1794)、ナポレオンのエジプト遠征に随伴した際のエジプト学士院の創設など、政治的変動期において科学界の重鎮として活躍した。1804年には伯爵および元老院議員。1807年からはパリ郊外のアルクイユに設立した学会で後進を育てる。
ラボアジエらと『化学命名法』(1787)を著すが、青酸は酸素を含まないことをみいだし、酸はかならずしも酸素に基づかないことを示した(1787)。アンモニア(1785)やメタン(1786)の組成も明らかにした。塩素から製した塩素酸カリウムによる火薬製造や塩素水による布漂白(1785)などの技術的研究もある。後者はC・テナントの漂白粉へと発展し、産業革命の推進に大いに力あった。『染色法原理』(1791)では染色機構を化学的に考察した。『化学静力学論考』(1803)は質量作用の法則を予見した歴史に残る書である。エジプト滞在中、塩湖におけるナトロン(炭酸ナトリウム)採取を観察し、通常は反応しない食塩と石灰が後者の多量の存在と高温とによって複分解すると考えた。親和力は量、溶解度、温度などの物理的条件の影響を受け、化学反応の方向が変化するとした。しかし、物質の結合割合は条件によって連続的に変わりうるとまで一般化したので、定比例の法則を提唱したプルーストの批判を受け、化学平衡にかかわる萌芽(ほうが)はつぶされてしまった。ガラスのような不定比組成の化合物の存在はのちに認められ、ベルトライドと命名された。
[肱岡義人]
『カロヤン・マノロフ著、早川光雄訳『化学をつくった人びと』(1979・東京図書)』
フランスの化学者。オルレアン公の援護のもとに初めは医者であったが,1780年にアカデミー・デ・シアンスの化学の会員となった。真っ先にA.L.ラボアジエの酸素説を支持し(1785),化学命名法の確立にも協力した(1787)。また,アンモニアが窒素と水素のみから成ることや(1785),青酸は窒素,炭素,水素から成ることなどを突きとめた(1787)。84年からゴブラン工場染色部門の取引主監となり,染色技術の研究も行うかたわら,塩素水溶液の漂白作用を認め,これによる布の漂白方法を研究した(1785-1804)。フランス革命下では火薬の供給の研究などに従事したほか,エコール・ノルマル・シュペリウールやエコール・ポリテクニクの教授も務めた。ナポレオンの信任厚く,伯爵,元老院議員となる。99年ナポレオンのエジプト遠征に随行した際,ナトルーン湖で,普通観察される化学反応とは逆の反応,すなわち炭酸カルシウムと塩化ナトリウムから,塩化カルシウムと炭酸ナトリウムが多量に生じていることを見つけた。この事実をもとに,化学親和力が環境条件のいかんにかかわらず,つねに一定であるとみなす従来の考え方を批判し,反応の際には,反応物の量(化学質量)や他の物理的条件を考えねばならないとした。そこからさらに進んで,化合物中の元素の比はある範囲内で変化しうると考え,定比例の法則を主張したJ.L.プルーストと論争を繰り広げた。結果的には,溶液までも化合物に含めてしまった点でベルトレはいきすぎていたが,現在彼が主張したような不定比化合物,すなわちベルトライド化合物(非化学量論的化合物)の存在が確認されている。
執筆者:吉田 晃
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フランスの化学者.1768年トリノ大学で医者の資格を得たが,4年後にはパリに出て化学を学んだ.医学の勉強も続け,1778年医学博士号を取得.その2年後には科学アカデミー会員に選ばれ,1784年ゴブラン王立工場染色部門の管理官となった.1785年それまで支持していたフロギストン説を捨て,フランスで最初にA.L. Lavoisier(ラボアジエ)の酸素説支持を表明した.このころ,定性分析によりアンモニアが窒素と水素からなることを示し,ついで青酸が炭素と窒素と水素しか含まないとした.これは,酸素が酸の原因であるとするLavoisierの考えに対する反証となった.産業の面では,当時の手間のかかる布の漂白のために,塩素水溶液を使った漂白方法を考え出した.フランス革命時には,エコール・ポリテクニークの創設に協力し,また高等師範学校(エコール・ノルマル)でも教べんをとった.1798年Napoléonのエジプト遠征に参加した際,ナトロン湖で炭酸ソーダが無尽蔵と思えるほど析出する現象を観察した.これをきっかけに,それまであたためていた親和力の考えを発展させ発表した.それは,親和力はつねに一定であるわけではなく,物理的条件(温度,量,溶解度,圧力,物質の三態)により変化するということである.この考えから,かれはJ.L. Proust(プルースト)が主張した定比例の法則を批判した.今日では,かれにちなんで,不定比化合物をベルトライド(ベルトリド化合物)とよんでいる.のちに,Napoléonはかれに伯爵の位を与え,さらに上院議員に任命した.Napoléonの没落後の王政復活後も政治的に失脚することなく,あらたに貴族院議員に任じられた.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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…スウェーデンのベリマンT.O.Bergman(1735‐84)は,多数の酸と塩基の組合せについて,相互に置換しあう酸と塩基の相対的な能力の差によって化学親和力の大きさを評価できると考えた。
[化学反応の方向]
化学反応における物質量の重要性に注目したのはフランスのC.L.ベルトレであり,ある物質に2種類の物質が競合的に反応するとき,反応量は化学親和力の相対的大きさだけに依存するのではなく,反応物質の量にも依存することを指摘した。たとえば硫酸バリウムBaSO4のような不溶性の塩も,炭酸カリウムK2CO3溶液と煮沸を繰り返すことによって溶かすことができる。…
…製鉄の各分野がここで模範的にまとめられた。そしてついにA.L.ラボアジエの新元素観と酸化と還元の理論,G.モンジュがC.L.ベルトレらと共同してこの新理論を冶金に適用し,高炉における還元と吸炭の過程,精錬炉における合金元素,同伴元素,有害元素の酸化除去のプロセスをみごとに解明した。今や炭素,ケイ素,マンガン,リン,硫黄など,鉄中の諸元素の挙動が追究され,技術の向上に決定的に寄与するに至った。…
※「ベルトレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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