フランスの小説家。20世紀フランス文学を代表する作家の1人で、19世紀のバルザックに比すべき存在。彼を無視して20世紀の小説は語れないといわれるくらい後代への影響が大きく、カフカやジョイスらとともに現代文学の偉大な先駆者となった。
[保苅瑞穂]
1871年7月10日、母がパリ・コミューンの動乱を避けて避難していたパリ郊外のオートゥイユ(現在パリ16区)の叔父の家で生まれる。父アドリアン・プルーストはシャルトルに近いイリエ(現在はイリエ・コンブレーと改称)の旧家の出身で、のちパリ大学衛生学教授。母ジャンヌはパリのユダヤ系株式仲買人の娘。高い教養と繊細な感受性の持ち主で、マルセルとの間に『母との書簡』を残すほか、小説に登場する母または祖母のモデルとなる。親殺しとその贖罪(しょくざい)のための芸術創造という小説の倫理的テーマは母との関係から着想された。
9歳のとき最初の喘息(ぜんそく)の発作。これは生まれつき病弱だった彼の生涯の持病となる。1882年コンドルセ高等中学に入学。同人誌を出して文才を示し始める。このころからほうぼうのサロンに出入りして、社交生活が始まる。1年間の志願兵役ののち、90年にパリ大学法学部に入学。ふたたび同人誌『饗宴(きょうえん)』Le Banquet(1892~93)を発行するかたわら、象徴派の文芸雑誌『ラ・ルビュ・ブランシュ』などにも作品を発表。その大部分は処女作『楽しみと日々』(1896)に収録された。この作品集はプルーストの天分と後の大作のテーマを萌芽(ほうが)的に含んではいたが、世の注目をひくに至らなかった。
やがて彼は当時の社交界に君臨する貴族たち、とりわけロベール・ド・モンテスキウ伯爵comte de Robert de Montesquiou-Fezensac(1855―1921)を識(し)り、閉ざされた貴族社会に入り込んでいく。ここで観察されたおびただしい人間たちが複雑に絡み合って、小説の主要人物が創造されていく。95年、職業の選択を父に迫られてマザリーヌ図書館の無給嘱託となるが、病気を理由にただちに休職。10月、生涯の友人で作曲家のレーナルド・アーンReynaldo Hahnとブルターニュを旅行し、3人称体の長編小説『ジャン・サントゥイユ』(没後1954刊)を書き始める。この自伝的要素の濃い小説は、記憶、恋愛心理の分析、社交界の風俗描写など、『失われた時を求めて』の主要テーマを扱っているが、99年末、完成をみずに放棄された。97年、ドレフュス事件に強い関心を示し、熱心なドレフュス擁護派となる。また90年代後半には『晦渋(かいじゅう)に反駁(はんばく)する』(1896)や、当時未発表のまま残された画家論(ワトー、シャルダン、レンブラント、モロー、マネ)が執筆された。
1900年、イギリスの美術批評家ジョン・ラスキンの美学に傾倒し、数編のラスキン論を執筆。また自らその『アミアンの聖書』と『胡麻(ごま)と百合(ゆり)』を翻訳。5月にはラスキンの足跡を追ってベネチア、翌年はフランス各地の教会堂を訪ねる。03年に父が、05年に母が相次いで他界。母に護(まも)られて生きてきた彼は、母を失った悲しみと絶望から一時サナトリウムに入院した。「母を看病していた尼僧がいったとおり、私は母にはいつまでも4歳の小児だったのです」。08年、著名な作家たちのみごとな文体模写を『ルモアーヌ事件』と題して発表。この年から翌年にかけて、ネルバル、ボードレール、バルザックについての重要な論文を含む一連の評論を執筆(『サント・ブーブに反駁する』没後1954刊)。健康が悪化するなかで、09年秋、幾度かの試行錯誤を経て、ついに『失われた時を求めて』に着手。翌年、騒音や外気を遮断するために部屋をコルク張りにして小説に全力を注ぐ。13年、出版社を求めて奔走するが、すべて徒労に終わる。やむなく第一巻『スワン家のほうへ』をグラッセ書店から自費出版した。しかし第一次世界大戦のために続巻の刊行は18年まで中断された。この間に小説は加筆訂正されて、全三巻の予定が全七編15巻に膨れ上がった。19年に『花咲く乙女たちのかげに』がゴンクール賞を受賞し、彼の名声は一挙に高まる。また『フロベールの文体について』(1920)、『或(あ)る友に――文体についての覚書』(1921)、『ボードレールについて』(1921)を発表して、鋭い批評眼をも示した。
1922年11月18日、女中兼助手のセレストに手伝わせて朝3時ごろまで作品を推敲(すいこう)していたが、呼吸困難に陥り、弟のロベールにみとられて絶命。死後、作品は各国語に翻訳されて世界的名声を博するに至った。なお彼には膨大な量の書簡があり、現在パリのプロン社から刊行中である。
[保苅瑞穂]
プルーストは、バルザックのように人間の行動や筋の展開を描くことより、その背後にある人間の内面生活の認識を小説の主たる内容とした。その意味で彼の小説はフランスの心理小説の伝統に連なるものであるが、そこに示された分析は他に類例をみない精密さをもって深層心理を解剖し、ほとんどフロイト的な無意識の領域にまで及んでいる。他方、ここには、彼独自の印象主義的なビジョンがとらえた風景や外的対象――彼のいわゆる「印象」と化した現実――の隠喩(いんゆ)的表現が随所にみられる。そうした描写は、従来の小説におけるように単なる場面や背景の説明であることをやめて、対象を認識しようと努める精神の活動の場となっている。つまり、精神の認識の対象となった外界は、初めて人間の内面と同等の価値をもって小説の構成要素となったといえよう。
[保苅瑞穂]
『鈴木道彦訳『囚われの女』(『世界の文学32』1966・中央公論社)』▽『鈴木道彦訳『プルースト文芸評論』(1977・筑摩書房)』▽『保苅瑞穂訳『逃げ去る女』(『世界文学全集75』所収・1978・講談社)』▽『A・モーロワ著、井上究一郎・平井啓之訳『プルーストを求めて』(1972・筑摩書房)』▽『ペインター著、岩崎力訳『マルセル・プルースト――伝記』(1971・筑摩書房)』▽『井上究一郎・鈴木道彦・岩崎力・保苅瑞穂他訳『プルースト全集』17巻・別巻1(1984~ ・筑摩書房)』
フランスの化学者。アンジェの薬剤師の息子。初等教育を受けたのち、父や他の薬剤師に徒弟入り。サルペートリエ病院の主任薬剤師(1776)になるが、1778年スペインに招かれ、バスクの王立アカデミーやセゴビアの王立砲兵学校(1788)の化学教授を歴任。帰国後(1806)は引退に近い生活を送った。化学分析に秀で、分析試薬として硫化水素を開発、また、化合物組成を重量%で表示した。ブドウ糖の単離やチーズ中のロイシンの発見の業績もある。1794年、論文「プルシアンブルーに関する研究」において、同種の化合物は一定組成をもつという定比例の法則を提唱した。組成の連続的変化説をとるベルトレとの論争を通じてデータが蓄積され、1811年ベルツェリウスがドルトンの原子論に基づいて理論化し、この法則が確立した。これらの業績は近代化学の基盤形成に不可欠なものであった。
[肱岡義人]
20世紀文学に変革をもたらしたフランスの作家。父はカトリックで医学界の重鎮。母はユダヤ人の金融業者の娘。反ユダヤ主義が急速に広まった19世紀末フランスでのこの母方の家系と,母の過度の愛情が,プルーストの素質決定に大きく作用したと思われる。2歳下の弟は後に父の後を継いで医学を選ぶが,プルーストは幼いときから母に似て文学好きだった。とりわけ9歳のときの激しい喘息の発作以来,生涯にわたりこの病気に悩まされ,そのために人並みの職業につけなかったことも手伝って,やがて彼は文学を天職と見なすようになる。その上,彼は20歳を過ぎるころから,同性愛者としての傾向を自覚するようになり,そのことが彼の後の作品に特異な主題と雰囲気を与えるようになる。
若い頃から,プルーストは社交界に出入りしているが,そこは彼にとってスノビスムを満足させる場所であるとともに,屈強な観察の場所でもあった。処女出版《愉しみと日々》(1896)は,同人誌に発表した文章に新たな詩文を書き加えたもの。また1895年ごろから,自分の分身のごときジャン・サントゥイユという人物を主人公とする長編に取り組むが,完成に至らず放棄する。ついでジョン・ラスキンに傾倒し,多くのエッセーと,ラスキン作《アミアンの聖書》《胡麻と百合》の翻訳とを発表。1903年に父を,05年に母を失い,一時は失意のどん底に陥るが,立ち直って08年ごろから,さまざまな作家の模作による批評を試みるとともに,サント・ブーブの方法を批判すべく多くのノートや断章を執筆する。これが後の大作《失われた時を求めて》を準備することになる。プルーストの創作の根底にはこのように,厳密な批評意識と方法論がひそんでおり,それが彼をして,象徴派以後のフランス文学の最も正統的な作者たらしめたのである。
病身で神経質なプルーストは,この頃,自分の部屋をコルク張りにして外部の音を遮断し,日夜創作に励んだあげく,《失われた時を求めて》はいったん完成し,第1編が刊行されたが(1913),第1次大戦のために出版は中断される。大戦中にプルーストは多くの加筆を行い,作品は大幅に膨張。戦後,第2編《花咲く乙女たちのかげに》(1919)がゴンクール賞を獲得し,作者の名声は大いに上がる。健康がますます衰えたプルーストは,けんめいに作品の完成に励むが,第4編までを出版して第5編の校正刷りにとりかかっていた段階で,ついに力尽きる。したがって,全7編の大作の第5編以後は,未定稿のまま作者の死後に出版された。
プルーストの一生は,この未完の作品に収斂される。またその作品は,ひとりの作家が自分の全存在を虚構化する試みということができる。したがって自伝的な要素も強いが,同時にそこには小説による救済,小説による実人生の正当化の契機も含まれており,その意味においてもプルーストの作品は,小説の根本問題を後世に投げかけたものである。
日本の現代文学に与えた影響も大きいが,とりわけいち早くすぐれたプルースト論を書いた堀辰雄や,《方舟》グループの作家たち(とくに初期の中村真一郎)には,その影響が顕著な形であらわれている。
執筆者:鈴木 道彦
フランスの化学者。父親の薬局を継ぐべく薬学を学んだが,パリに出て病院の薬剤師となった。しかし,途中の5年間の一時帰国を除き,24年間,スペイン(おもにマドリードとセゴビア)において物理,化学,鉱物学等を教授した。おもな研究はスペイン滞在中になされたが,金属の酸化物,硫化物の定量分析に関するものが多い。帰国後,アカデミー・デ・シアンスの会員となる。
現在プルーストの法則として知られている〈定比例の法則〉の発端は,鉄はそれまで考えられていたように,ある範囲内ではどんな割合でも酸素と結合するのではなく,2種の酸化鉄しかないことを確かめたことにある(これは1794年の《ベルリン青の研究》という論文で発表された)。19世紀の初め,この法則の是非をめぐって,C.L.ベルトレと論争を行った。このほか,銅の化合物の分析から水酸化物という新しい化合の形を発見してもいる。
執筆者:吉田 晃
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フランスの化学者.薬剤師であった父親から,後を継ぐため薬学を学んだが,パリに出て化学を学び,サルペトリエールの病院に薬剤師として一時期職を得た.1786年スペインへの2度目の招待を受け,はじめはマドリッドで教えた後,セゴビアの砲兵学校の化学教授となった.このころから,鉄の酸化物の定量分析研究をはじめ,化合物の組成比が変化することはないことを実験によって示そうとした.いわゆる定比例の法則である.そこから,化合物の組成比は可変であるとするC.L. Berthollet(ベルトレ)との論争がはじまった.当時は,結合と混合の定義のあいまいさもあって,定比例の考えはすぐには支持されなかった.1806年にフランスに帰国したが,晩年の1816年になって,ようやくフランス学士会員に選ばれた.
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1871~1922
フランスの作家。青年時代を社交界と文学趣味に過ごしたが,1905年頃両親の死と持病の悪化を機に社会と絶縁し,一室に閉じこもり『失われた時を求めて』の執筆に全力を傾けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…一つの化合物に含まれる成分元素の質量の比はつねに一定であるという法則で,1799年J.L.プルーストにより見いだされた。この法則が成り立つのは,原子量の一定な成分元素がつねに一定の原子数の比で化合物をつくるからである。…
…フランスの作家プルーストの,自伝的要素を盛りこんだ作品で,名前も明記されていない語り手の物語る一人称小説。1913‐27年刊。…
…ポーの諸短編が素描した〈あまのじゃく〉の心理は,ロシアのドストエフスキーによって無意識の深淵にまで追求され,心理分析小説の前提である古典力学的決定論を完全に無効にした。こうした傾向を集約した人間学の新しい理論として登場したのが,フロイトの精神分析学であるが,それと呼応するかのように,プルーストは畢生の大作《失われた時を求めて》(1913‐27)で,〈私〉の独白に始まる自伝的回想が,そのまま写実的な一時代の風俗の壁画でもある空間を創造して,心理小説に終止符を打った。人物や家屋や家具の純粋に視覚的な描写の連続のしかたが,そのまま観察者=話者である主人公の嫉妬の情念の形象化でもあるようなロブ・グリエの《嫉妬》(1957)は,プルーストの方法をいっそうつきつめた成果であるが,その先駆者は《ボバリー夫人》(1857)のフローベールにほかならない。…
…プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。J.コクトーと俳優J.マレーとの関係も有名である。…
※「プルースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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