オーストリアの物理学者。とくに気体論の研究で知られ、統計力学の基礎を築いた一人として著名である。帝室財務書記官の子としてウィーンに生まれ、少年期をウェルス・リンツで過ごし、ウィーン大学で物理学を修め、シュテファンらに接した。1866年に同大学を卒業後、シュテファンのもとで助手となり、1867年に学位を取得、翌1868年グラーツ大学教授となった。その後、一時期をハイデルベルクのブンゼンとケーニヒスベルガーLeo Königsberger(1837―1921)のもとで、またベルリンのキルヒホッフとヘルムホルツのもとで客員として過ごしたが、1873年ウィーン大学を皮切りに、グラーツ、ミュンヘン、ライプツィヒの各大学の教授を歴任、最後はウィーン大学に落ち着き、没年までその職にあった。その学識は該博で、グラーツでは初め数理物理学を、のちに実験物理学の講座を担当、ミュンヘンでは理論物理学を、ウィーンでは物理学のほか哲学の講義をも行った。その講義は「水晶のように明晰(めいせき)であった」と評されている。
彼の研究はきわめて広範囲にわたっているが、その主題は理論物理学、とくに古典力学と原子論的観点からの熱理論の展開と推進であった。マクスウェルが開拓した気体分子運動論を発展させ、熱平衡状態でマクスウェル分布が実現することの厳密な力学的証明を与えることに努力し、分布関数の時間的変化を与えるボルツマン方程式をたてた。これによっていわゆるマクスウェル‐ボルツマン分布の基礎づけが確立したが、さらにこれを手掛りに熱現象の不可逆性の力学的証明を追究し、ついにH定理を示して不可逆性を証明した(1872)。そしてこれに関連して可逆性の反論(ロシュミット)や再帰性の反論(ツェルメロ)など厳しい困難が指摘されると、それに答えるべくH定理の物理的意味を考究し、やがてエントロピーの増大は単なる力学的法則ではなく確率的な法則であるという解釈に達し、その確率的な意味を明らかにするとともに、エントロピーを状態確率の関数として定義づけた(1877)。有名なS=klogW(Sはエントロピー、Wは状態確率、kはボルツマン定数)の式である。この式の根底には、系の微視的状態がすべて等しい先験的確率をもつという仮定がある。そしてこれは、その背景としていわゆるエルゴード仮説(任意の位相軌道はエネルギー一定の面上、すべての点を通過するという仮説)と密接に関連している。1871年にボルツマンが導入したこの仮説は、統計力学の成立への重要な貢献となった。そしてこれらの結果を粘性、拡散などの具体的問題に適用する面でも精力的に研究活動を行った。
他の分野でも、マクスウェル電磁気学の検討、誘電率と透磁率の測定による伝播(でんぱ)速度のチェック、弾性余効の研究などがあり、とりわけ放射エネルギーの温度依存性(4乗に比例)の理論的導出(シュテファン‐ボルツマンの法則)は重要である。これはやがて熱輻射(ねつふくしゃ)論の展開のうえで大きな役割を果たすものとなった。方法論的には原子論の立場を推進、擁護したことでも有名で、当時きわめて盛んであったエネルゲティークの人々――その代表者にはマッハ、オストワルト、デュエムPierre-Maurice-Marie Duhem(1861―1916)、ヘルムGeorg Helm(1851―1923)らの人々が数えられるが――と論争した。エネルゲティークは、実証主義哲学を背景に現象論的記述をもって自然科学の課題とみなし、そのためにはエネルギーを普遍概念として用いるべきであると主張し、「仮想的」である原子、したがってそれに基礎を置く気体運動論をも激しく論難したものであった。1895年のリューベック会議での論争などは著名である。ボルツマンは原子論の立場を徹底して擁護し「最後の原子論者」などとよばれたという。この論争を通じてボルツマンが述べた「エネルギーにも原子がありうる」ということばは、後のエネルギー量子化を暗示した先見性であったとする評者もある。
晩年神経症を患い、ライプツィヒ時代にも一度未遂に終わったが、結局1906年避暑地ドウィノで自ら生命を絶った。自殺の原因は明らかではないが、原子論論争と無関係ではなかったようである。そして彼の死の直後に、ブラウン運動により、原子の存在の実験的確証が与えられたのも歴史の一つの皮肉であろう。
[藤村 淳]
『ブローダ著、市井三郎・恒藤敏彦訳『ボルツマン』(1957/新装版・1979・みすず書房)』
オーストリアの理論物理学者。ウィーンの生れ。ウィーン大学に学び,1866年に卒業後2年間J.シュテファンの助手をつとめる。グラーツ,ウィーン,ミュンヘンの各大学教授をへて,94年以後はシュテファンの後任としてウィーン大学理論物理学教授,1903年には病気で退職したマッハの後任として同大学哲学教授を兼ねた。生涯の大部分を気体運動論の完成と統計力学の基礎づけに費やした彼は,1866年の学位論文で,多原子の衝突の観点から熱力学の第2法則を論じ,その存在を力学的に証明,力学的表式を得た。68年には実在的気体のふるまいをとらえるためにマクスウェルの速度分布則を拡張,さらにエルゴード仮説の着想にも達した。また多数の質点系の位相空間における分布を問題にした(1871)。72年には気体の状態関数を決めるための基礎方程式であるボルツマン方程式を足がかりにしてH定理を導出,第2法則に示される非可逆過程を分子運動論的に基礎づけた。H定理が76年J.ロシュミットの〈可逆パラドックス〉で批判されるにおよび,ボルツマンは非可逆性の根源についてより深い考察を加え,その結果,77年にはボルツマンの原理を提示,平衡分布をもっとも確からしい分布と規定した。さらにE.ツェルメロの〈再帰パラドックス〉によってH定理を再度批判されると,ゆらぎを考慮に入れてH定理を統計的に解釈し直した(1896)。研究のはじめから抽象的な研究とともに具体的研究にも手をそめていたボルツマンのこの分野で有名なものは,気体の粘性や拡散についての精力的な計算である(1881-82)。このほか,マクスウェルの電磁理論に学生時代から魅せられていた彼は,この理論の帰結である誘電率と屈折率との関係を実験的に検証した(1873-74)ばかりでなく,この理論の帰結である放射圧を考慮して,黒体放射の全強度と温度との間で見いだされていたシュテファンの実験法則を理論的に導出(1884)したこともよく知られている。
90年以降は,みずからの物理学研究をふまえたうえで,19世紀後半の物理学の進展に伴う認識論的・方法論的問題にも興味を示し,それに批判的分析を加えた。とくに,現象論的な熱力学の隆盛に伴って登場したオストワルトのエネルギー論,マッハの要素一元論といった科学の実証主義的方法論の傾向に対して,理論を外界の〈模像〉と考え,また科学の展開に伴って豊かにされる原子の動的描像論という独得の原子論とから仮借なき批判を展開した。さらに,こうした実証主義的傾向と並行してあらわれた力学批判に対して,力学的自然観批判といった自然観レベルの批判をこえて,新たに発見された物理学的事実が要請している力学をつくるべく模索した。1906年アドリア海辺のドゥイノで自殺,その死は当時大きな衝撃を与えた。自殺の背景はさまざまにとりざたされているが,うつ病だったこと以外明らかになっていない。
→エネルギー論 →統計力学
執筆者:渋谷 一夫
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…エネルギー論またはエネルゲティークは,このアトミスティークに対抗して提案されたもう一つの世界観である。 アトミスティークとエネルギー論との論争の最初のきっかけは,1895年にリューベックで開かれたドイツ自然科学者・医師協会総会の席上で,オストワルトが行った,ボルツマンらのアトミスティークを批判する講演であった。主としてこのオストワルトの立場をエネルギー論と呼ぶ。…
…統計力学の土台となる仮説にエルゴード仮説ergodic hypothesisがある。これは,熱平衡状態にある系においては,物理量の熱力学的観測値は,すべての力学的状態についての物理量の平均値に等しいというもので,そもそもL.ボルツマンによって提唱された仮定である。このエルゴード仮説を証明する試みをエルゴード理論という。…
… エントロピーという概念は,熱力学的な状態の変化を特徴づけるものとしてR.J.E.クラウジウスが導入したものであり,その名はギリシア語のentropē(反転する働きの意)に由来し,変化容量の意味で命名されたものである。
[エントロピーのミクロな意味]
エントロピーにミクロな意味づけを与えたのはL.ボルツマンである。彼はミクロな状態の数をWとするとき,そのエントロピーSは,S=klogWで与えられると提案した。…
…ウィーン大学に学び,1863年から同大学教授を務める。J.ティンダルが行った,電流による白金線の発熱の際観察される放射に関する実験結果などから,熱放射のエネルギーが絶対温度の4乗に比例することを発見,これは84年L.ボルツマンによって理論的に演繹(えんえき)された(シュテファン=ボルツマンの法則)。また気体の拡散係数,摩擦係数およびそれらの絶対温度に対する依存性を理論計算から導き,熱伝導を測定する簡単な装置を考案し,気体分子運動論の確立にも貢献をした。…
…すなわち,E=σT4。比例定数σはシュテファン=ボルツマン定数と呼ばれ,ボルツマン定数をk,プランク定数を2πで割ったものをħ,真空中の光速度をcとして,σ=π2k4/60ħ3c2=5.67032J/m2・s・K4である。EがT4に比例することは1879年にJ.シュテファンが述べたものであるが,その根拠は,熱した白金線の出す全放射エネルギーが1200℃では525℃のときの11.7倍になるというJ.ティンダルの実験(1875)にあり,事実,絶対温度を用いると(1473K/798K)4が11.7に近くなるのだった。…
…熱平衡状態での形は,1860年の速度成分を確率変数とする仮定は根拠があやふやだと反省し,のちに分子間衝突で分布の形が変わらぬ条件を表す詳細に見たつりあいの式の解として求め直している。 熱力学の第1法則は力学のエネルギー原理にほかならなかったが,L.ボルツマンは熱力学の第2法則を力学的に証明しようとして気体の動力学的理論に入ってきた。速度分布の初期の形がどうであっても時間の経過とともにマクスウェルの分布則に近づくことの証明が根本問題であった。…
…L.ボルツマンによって導かれた統計力学上の原理。孤立系(外界との間にエネルギーや粒子のやりとりのない巨視系)がエネルギーUをもったまま熱平衡状態にあるとき,そのエントロピーSは,この系のエネルギーの値がU以下であるようなミクロ状態の数をW(=W(U))として, S=klogeWで与えられるというもの。…
…気体分子の分布関数を決定するための基礎的な方程式で,1872年,L.ボルツマンにより導かれた。気体中の1個の分子の運動状態を決めるには,空間座標x,y,zと運動量成分px,py,pzとを指定すればよい。…
※「ボルツマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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