翻訳|Madrid
イベリア半島のほぼ中央にあるスペインの首都。人口310万(2004)。マンサナレス川の東岸にあり,標高655m。北と北西はグアダラマ山脈に連なる山々が迫り,南と南西は乾いたラ・マンチャ地方に続いている。東は荒れた石灰質の丘がひろがって,気候的・地理的に異なる三つの地方の接点にある。
マドリードは9世紀後半につくられ,アラビア語でマジュリートMajrīṭと呼ばれる集落であった。イスラム教徒のトレド王国の前線基地として北および北西の山脈の峠と,マンサナレス,ハラマ,タホの河川を監視する一方,トレドとグアダラハラを結ぶ幹線道路に近かった。このころのマドリードは人口1万2000,西側のイスラム教徒の宮殿とモスクのある地域と,東側の農民の地域に二分され,彼らがつくった農業用水路からマジュリートの名が由来している。両地域の交通は,現在のマヨール通りの起点の所にあった橋によって行われた。
1083年,アルフォンソ6世がマドリードを最終的にキリスト教徒の手に回復し,セゴビアの自治体が再植民を行った。1202年にマドリードの都市特権(フェロ)が発布され,市の紋章(熊は自治体,ヤマモモは村villaを表す)も決められた。マドリードの発展・拡張は東に向かってなされ,今のプエルタ・デル・ソルPuerta del Solがその出発点となった。
何人かの王がマドリードに滞在することがあったものの,1561年にフェリペ2世が王室をマドリードに移すまで,マドリードは司教座もない村にしかすぎなかった。マドリードはスペイン帝国の中心となり,宮廷に伺候する貴族及びその一族,芸術家たちが集まり,人口は1万4000となった。フェリペ4世(在位1621-65)は税金問題のためにマドリードの面積を決定し,イスラム時代の35haから一挙に22倍に拡張し,幅は12kmとなった。当時の市域は柵で囲まれ,今のビルバオ,コロン,シベレス,アトチャ,エンバハドレス,トレドの各広場に門があった。ラ・ビリャ・イ・コルテ(村と王宮)と呼ばれたマドリードの中心は現在のマヨール広場Plaza Mayorで,柱廊とバルコニーのある建物に取り巻かれ,ここで闘牛や異端審問や処刑などが行われた。
2回目の都市拡大はカルロス3世時代(在位1759-88)に行われ,18世紀末には人口は15万6672を数えた。王宮,アルバ伯公爵邸,トレド橋,アルカラ門などが建てられ,マドリードで起きた事件は全スペインに影響を及ぼすようになった。1776年3月のエスキラーチェの乱,1808年5月2日のゴヤによって描かれたマドリードの蜂起(スペイン独立戦争)がその好例である。19世紀になると,中心はプエルタ・デル・ソルに移り,全国に通じる主要道路はここが起点となった。新しい都市計画によって,ティルソ・デ・モリーナ,スペイン,サンタ・アナなどの広場がつくられ,北東部にサラマンカ地区が開発された。ここは20世紀前半までブルジョアジーの住宅地であった。また,グアダラマ山脈から水を引いてマドリードに初めて水道が設けられた。マドリードの発展は相変わらず東に向かっていた。それは北と西への発展はマンサナレス川,王宮,カサ・デ・カンポなどの森によって妨げられていたからである。アルカラ・デ・エナレスの司教座はマドリードに包括され,大学(コンプルテンセ大学)もマドリードに移された(1836)。19世紀末には人口は50万に達していた。1927年にはアルフォンソ13世がこの大学を中心として北西部に大学都市をつくった。
1936年から始まったスペイン内乱では,マドリード戦線は長期にわたって膠着し,郊外で激戦が続き,市内も大きな損害を被った。内戦が終わった39年に,ようやく北と西の川,森,山を越えた拡張が行われた。1950年には人口が100万に達し,60年代には貿易,金融ではスペイン第1,工業(航空産業,自動車,金属,建設)ではバルセロナに次いで第2位となり,人口も200万を超えた。フランコ時代のブルジョアジーは北と北西を囲む緑地帯を越えて高級住宅地をつくった。一方,労働者はおもに南の方へ移動した。
現在のマドリードの中心はシベレス広場である。ここで東西・南北に走る主要道路が交差し,この道路によって南と東は工業地帯,労働者の住宅地,北は中産階級の上層とブルジョアジーの居住地とに分けられている。1631年に建てられたブエン・レテイロ王宮の森はレテイロ公園となり,市民の憩いの場である。シベレス広場を南へ少し下ると,カルロス3世が計画し1819年に完成した,エル・グレコ,ベラスケス,ゴヤをはじめとする世界的名画の収蔵を誇るプラド美術館がある。5月中旬のマドリードの守護聖人聖イシドロの祝日の期間が観光シーズンの最盛期で,連日,闘牛が開催される。
執筆者:フアン・ソペーニャ
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スペインの首都。同国のほぼ中央にあり、道路、鉄道、航空網の要(かなめ)であるとともに、政治、経済の中心地で、大司教座、大学の所在地。人口293万8723(2001)はスペイン第1位。周辺の自治体を含めたマドリード大都市圏(大マドリード)には、スペイン全人口の1割強が集中している。この大マドリードを核として自治州を構成し、その面積は7995平方キロメートル、人口542万3384(2001)。グアダラマ山脈南麓(なんろく)の標高655メートルのメセタ上に位置し、ヨーロッパの首都としては最高所にある。高原で、かつ内陸に位置するため気候は内陸性を示し、とくに気温の日較差は11℃に達することがある。平均気温は1月4.9℃、8月24.2℃であるが、夏は40℃近くに、冬は零下10℃以下になる日もある。年降水量は438ミリメートルで、春・秋に雨が多く、夏は少雨で乾燥している。
市街地の中心部は、マンサナーレス川左岸の岸辺にあるモーロ公園と王宮およびその東側で、19世紀中ごろまでの市域である。この旧市街は現在の市域の1割にもあたらない狭い範囲であり、当時の人口は18万程度で、単に王宮のある町にすぎなかった。市街地の拡大は19世紀後半の鉄道開通と前後して、住宅地、工場、交通施設が建設されてからである。とくにスペイン内戦(1936~39)後、強大な中央集権国家の誕生に伴う膨大な官僚群の集中と、復興のための建設労働者の大量流入により著しい人口増加が起こった。さらに豊富な労働力と大きな市場、さまざまな許認可権を握る中央政府との結び付きを求めて工場や事務所群が集中し、第三次産業も発展した。その結果、人口は1930年95万、1950年162万、1970年310万と急速に増加し、市域が拡大、かつては近郊にあった北西部の大学都市や東部のエル・レティロ公園、西のオエステ公園は市域内に取り込まれ、西郊のカサ・デ・カンポの大公園も、現在はマンサナーレス川を挟んで市街地に接している。
産業としては、19世紀までは王室お抱えの職人による綴織(つづれおり)の壁掛けや磁器製造などがおもなものであったが、現在は自動車、オートバイ、航空機、電気機械などの機械工業、ゴム、プラスチック、薬などの化学工業、製紙、皮革、家具、出版、印刷などの諸工業が立地している。工業地域はさらに郊外や周辺に形成され、衛星都市もできている。このような急速な都市の拡大と人口の集中は、住宅不足、交通機関の整備の立ち遅れ、旧市街における駐車場難、大気汚染等々の都市問題を引き起こしている。
旧市街には王宮、主要幹線道路の起点となっている「プエルタ・デル・ソル」(太陽の門)とよばれる卵形の広場、1600年代に野外劇場としてつくられ、バルコニーのついた建物に囲まれているマヨール広場、世界有数の美術館プラド美術館などがあり、多くの観光客を集めている。とくに5月中旬のサン・イシドロの祭りは盛大でにぎわう。
[田辺 裕・滝沢由美子]
9世紀にイスラム・ウマイヤ朝のムハンマド1世がここに城砦(じょうさい)を築いたことに始まり、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世が1083年に奪回した。以後レコンキスタ(国土回復戦争)の拠点となり、13世紀には国王から都市特権を与えられた。1339年にここでコルテス(王国議会)が開かれるなど徐々に重要性を増していったが、王国の中心となり始めるのは、コルテスがたびたび開催されるようになり王宮も据えられる15世紀である。カスティーリャ王国とアラゴン王国の合同(1469)によるスペインの統一以後、フェリペ2世の時代に宮廷がトレドからここに移されてからは、文字どおりスペインの中心都市としての地位を確立する。1701年に始まったスペイン継承戦争では、1706年から1710年までハプスブルク家カール大公に占領されたが、一貫してブルボン家フェリペ5世を支持した。政治都市としてばかりではなく、啓蒙(けいもう)専制時代、カルロス3世のもとで商工業も発展し、1782年にサン・カルロス銀行(後のスペイン銀行)が設立された。
1808年フランス占領軍に対する民衆蜂起(ほうき)が起こったが、フランス軍が過酷な弾圧を行い、そのためこれを契機に全土で対フランス独立戦争、ゲリラ戦による国民戦争が始まった。しかし、ここは、戦争が終結する1814年までフランスの占領下に置かれた。19世紀における政権交替では、ここでのクーデター、民衆蜂起の成否が決定的な役割を果たす。1840年の民衆蜂起による摂政(せっしょう)マリア・クリスティナの追放、1854年近郊の町ビカルバロでのクーデター宣言と民衆の呼応による進歩派政権の誕生などである。
政治の中心であったことは、20世紀に入ってからも変わらず、1934年10月のここでのゼネスト失敗は十月革命を敗北に導き、1936年7月の軍反乱の失敗、共和国側の防衛成功は、フランコ側に短期決戦を断念させ、長期の内乱を余儀なくさせた。
[中塚次郎]
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スペインの首都。スペインのほぼ中心部に位置し,カスティリャ地方の中心都市でもある。イスラーム教徒が9世紀に建設した要塞マジュリート(maŷrit)がその起源。1081年,カスティリャ‐レオン王アルフォンソ6世によって奪回され,1561年,フェリペ2世によって首都とされた。宮廷文化が栄え,17世紀半ばには人口でもスペイン第1の都市となり,19世紀後半に入って鉄道の開設とともに交通上の要地となった。スペイン内戦においては,人民戦線の牙城となり,最後までフランコ軍に抵抗したが,1939年3月28日フランコ軍の手中におちた。政治・商業都市としての性格が強かったが,60年代からは工業が大きく発展。
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… 政府は軍事クーデタが起こる危険性を認めつつも,政権を覆すほどの決定的な力はもちえないと判断していたようである。その理由の一つとして,政治構造がマドリードの中央集権主義に依拠しているために,国の隅々にいたる実情までは熟知していなかった点があげられる。つまり,共和国大統領および首相は,国民の大多数がカトリック教徒であり,保守的な志向をもつ農民である事実を理解していなかった。…
※「マドリード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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