改訂新版 世界大百科事典 「マフムード」の意味・わかりやすい解説
マフムード
Maḥmūd
生没年:971-1030
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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970~1030(在位998~1030)
アフガニスタンのガズナ朝の君主。セビュクテギンの子。弟を倒して即位し,ホラーサーンに勢力を拡大してサーマーン朝から自立した。十数回にわたって北インドに侵入し,イスラームの浸透に尽くした。西方ではブワイフ朝と戦い,イラン中部まで確保した。ペルシア文化の庇護育成にも努め,詩人フィルドゥシーや科学者ビールーニーなどを支援した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…サーマーン朝のトルコ人マムルーク(奴隷軍人),アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者となり,以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり,インドへの侵入を開始,その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し,イスラムの擁護者としての名声を得るとともに,多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で,その版図は,イラン中央部からホラズム,パンジャーブにまで達した。…
…10世紀後半に先駆的詩人ダキーキーの後を継いで,イラン建国からササン朝滅亡に至る神話,伝説,歴史をテーマに作詩に着手し,30余年をかけて約6万句に及ぶ大民族叙事詩《シャー・ナーメ(王書)》を完成させたのがイラン最大の民族詩人フィルドゥーシーである。 11世紀初頭から13世紀にかけてトルコ系ガズナ朝,セルジューク朝の支配が続いたとはいえ,これらの王朝も文化的には完全にイラン化してサーマーン朝以来の伝統的文化政策を踏襲したため,異民族王朝支配下においてもペルシア詩は隆盛の一途をたどり,11世紀前半ガズナ朝スルタン,マフムードの宮廷には400人ものペルシア宮廷詩人が仕えていたといわれ,桂冠詩人の制度が設けられ,ウンスリー‘Unṣurī,ファッルヒーFarrukhī,マヌーチフリーManūchihrīらの頌詩詩人が活躍し,ペルシア古典詩の主流になった〈ホラーサーン・スタイル〉を確立し,アラビア語彙を多く採り入れて表現をさらに豊かにした。11世紀後半から12世紀前半にかけてのセルジューク朝支配時代にはペルシア詩は質量ともに最高潮に達し,宮廷詩人としてはムイッジーMu‘izzīをはじめ,頌詩の最高詩人アンワリーが現れた。…
※「マフムード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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