ミストラ(その他表記)Mistrá

デジタル大辞泉 「ミストラ」の意味・読み・例文・類語

ミストラ(Mystras)

ギリシャ南部ペロポネソス半島南部にある廃墟の町。13世紀初頭に十字軍の砦が築かれたのが始まりで、東ローマ帝国支配の下に14~15世紀に最盛期を迎えた。山の斜面の最上部にカストロ山城)、中腹にゴシック風の宮殿邸宅、一番下に庶民の住宅や聖堂修道院が建てられていた。ビザンチン文化を代表する都市であったがオスマン帝国によって廃墟と化した。1989年に、世界遺産(文化遺産)に登録された。ミストラス

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改訂新版 世界大百科事典 「ミストラ」の意味・わかりやすい解説

ミストラ
Mistrá

ギリシアペロポネソス半島の中部にある中世の都市の遺構。ミストラスMistrásともいう。13世紀に,侵攻するスラブ人に対抗するために古代スパルタの西6kmに造られた城塞を中心に発達した町。フランク人,ビザンティン帝国,オスマン帝国など,支配者は転々と替わったが,つねにモレア(中世におけるペロポネソスの呼称)の重要な都市の一つであり,17世紀にはベネチアの支配のもとに絹を生産して繁栄の頂点に達し,人口は4万を超えた。その後,戦災などで衰退し,19世紀の近代ギリシア独立とともに古代スパルタが復興されるに及んでミストラは事実上放棄された。1952年にギリシア考古学協会は最後まで住んでいた30家族を移転させ,それ以来ここを中世の雰囲気をそっくり残す大規模な遺跡として保存と再現に努めている。とくに見るべき建物としては13世紀半ばに造られた城塞,ビザンティン世俗建築としてはまれな遺構である宮殿,14世紀初頭の大聖堂,14世紀の中ごろに造営され,この町で最も美しい建物とたたえられたパンタナッサPantánassaの教会などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミストラ」の意味・わかりやすい解説

ミストラ
Mistra

ギリシア南西部,ペロポニソス半島南部のスパルティ(→スパルタ)から南西約 5kmにあった,ビザンチン文化の繁栄した町。今日のミストラス。1261年フランク人により要塞として建設され,パレオロゴス朝が奪回してから 1460年までビザンチン帝国のモレア地方の行政,特に 14~15世紀初め頃は文化の中心となった。哲人ゲミストス・プレトンを中心にヘレニズム文化,ビザンチン文化の再興が行なわれ,イタリア・ルネサンス(→ルネサンス)に影響を与えた芸術作品が数多く生み出された。1989年世界遺産の文化遺産に登録。

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百科事典マイペディア 「ミストラ」の意味・わかりやすい解説

ミストラ

ギリシア,ペロポネソス半島の南部にある中世の都市遺跡。1249年ギリシア南部アカイアの王子,ギュロウム・ド・ブレハウドインが標高600mの丘の上に城塞を築いた。14世紀以降,ビザンティン帝国オスマン帝国,ベネツィアなどに支配された。丘の中腹にはビザンティン時代の王宮,ふもとには13世紀の聖ディミトリオス大聖堂,聖母マリアをまつった美しいパンタナッサ修道院などがある。いずれもフレスコ画をはじめビザンティン美術が残る。1989年,世界文化遺産に登録。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミストラ」の意味・わかりやすい解説

ミストラ
みすとら
Mistra

ギリシアのビザンティン帝国時代の遺跡。1248/1249年にフランク人のアカイア公ギヨーム・ド・ビルアルドゥアンがここに砦(とりで)を築いた。1262年にミストラはビザンティン帝国に引き渡され、ペロポネソスの中心都市となった。パンタナッサ修道院をはじめ修道院群で名高く、パレオロゴス朝ルネサンスを代表する文化も生んだ。1460年以降は一時期を除きオスマン帝国(トルコ)に支配されていた。ギリシア独立(1830)後、スパルタの再興とともにミストラは事実上放棄された。この遺跡は1989年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[古山正人]

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