ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パレオロゴス朝」の意味・わかりやすい解説
パレオロゴス朝
パレオロゴスちょう
Palaeologi; the Dynasty of Palaeologus
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ビザンティン帝国最後の王朝(1261~1453)。旧ビザンティン帝国の亡命政権であるニカイア帝国の皇帝ミハイル8世パレオロゴスPalaeologos(在位1259~82)が、旧首都コンスタンティノープルをラテン帝国から奪回して開き、以降9人の皇帝に受け継がれた。帝国とはいうものの、その領土は首都周辺とアテネ、ペロポネソスなどのみであった。国内では、土地を媒体にした皇帝と臣下の独特の主従関係であるプロノイア制によって封建制度が浸透したが、皇帝権の低下と地方豪族の台頭による絶えざる内乱、ベネチアなどイタリア商業都市の経済的進出などにより、国力は衰微の一途をたどった。バルカン半島のセルビア、小アジアのオスマン帝国に挟まれ、対外的にも苦戦を強いられた。ことに後者がバルカンを席巻(せっけん)し、アドリアノープル(現エディルネ)に首都を置くに至って、帝国の政治的独立は皆無に等しくなった。そして1370年には、ついにこれに進貢義務を負うに至った。諸皇帝は、東西両教会の再統一を条件に、ローマ教皇を通じて西欧諸国から軍事援助を引き出そうとしたが失敗した。1453年、最後の皇帝であるコンスタンティヌス11世はオスマン帝国のメフメト2世の総攻撃に敗れ、王朝は終息した。
パレオロゴス朝は、政治的にはきわめて不振であったが、文化的には大いに栄え、のちに「パレオロゴス・ルネサンス」とよばれる一大文芸復興期を形成した。なかでも、ミストラにプラトン・アカデミアを樹立して多くの人文主義者を育てたゲミストス・プレトンの業績は高く評価される。
[和田 廣]
1261~1453
コンスタンティノープルを奪回してビザンツ帝国を復活したミハイル8世によって創始された王朝。復活した帝国はバルカン側のイピロス専制公国やスラヴ諸国,エーゲ海周辺のラテン系諸国とその背後にある西欧,南欧諸国,小アジア側のトルコ勢力などの間に位置する弱小国にすぎず,1300年頃には一部の拠点を除く小アジア領を失い,74年にはオスマン帝国の属国と化し,オスマン帝国のコンスタンティノープル占領によって滅亡した。
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