1952年(昭和27)5月1日、第23回メーデーの日、皇居前広場周辺で警官隊とデモ隊が衝突、騒乱罪に問われた事件。「血のメーデー事件」ともいわれる。吹田(すいた)事件、大須(おおす)事件と並ぶ戦後の三大騒乱事件である。
この年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の発効直後であり、デモ隊の一部は両条約への抗議の意思をもって、皇居前広場に向けて行進した。広場は戦後メーデーの復活以来メーデー会場となり、他の多くの集会も開催されて、人民広場ともよばれていたが、1951年のメーデーに際し、アメリカ占領軍は同広場での開催を禁止し、52年のメーデーでは東京地裁が不許可処分取消判決を下していたにもかかわらず、政府の措置で開催を妨げられていた。広場では入場直後何事もなかったが、午後2時40分、排除を開始した警官隊は、催涙ガス弾、拳銃(けんじゅう)弾発射を含む実力行使に及んだ。さらに新たなデモ隊が到着し、広場のデモ隊が3万を超えるや、警官隊も約2000人に増員され、3時25分二度目の衝突が起こった。そして4時、最後の攻撃でデモ隊は広場から排除された。東京都職員の青年が背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ即死したのはこのときである。三度の排除攻撃、衝突で拳銃弾70発、催涙ガス弾73発が発射され、デモ隊側死者2人、重軽傷者千数百人に達した。警官隊側負傷者も800人といわれる。
警視庁は衝突の最中、早くも騒乱罪適用を決定し、同日夕刻から逮捕を開始、総検挙数1232人に上った。うち起訴261人、首謀者は存在せず「首なし騒乱」と称された。一方、政府は事件を共産党の軍事行動と非難し、当時国会審議中の破壊活動防止法案成立に利用した。
東京地裁の一審では、かつてないマンモス公判のため分離を主張する裁判所側と、統一を主張する弁護側が対立したが、結局統一公判方式がとられ、1953年2月から例のない6人の裁判官による公判が始まった。争点は騒乱罪成立か否かであるが、成否は、警官隊の行動を適法・正当とみるか、それともデモが正当な抗議行動であり、暴行・脅迫の共同意思は存在せず、違法な警察力の行使が衝突の原因であるとみるか、であった。公判開廷回数は1792回に及び、結審まで13年10か月、さらに判決まで3年11か月を要する長期裁判となった。70年1月28日の判決は、第一次衝突を警官隊違法、騒乱罪不成立、第二次衝突以降をデモ隊違法、騒乱罪成立とし、110人を無罪、93人を有罪とした。しかし、同判決およびその後の判決で有罪の宣告を受けた被告100人の控訴審判決は、72年11月21日に行われ、騒乱罪については全面不成立と認定、84人に無罪を言い渡した。残る16人には騒乱罪以外の罪を認めたが、原告・被告双方が上告を断念し、長期裁判に終止符が打たれた。事件発生以来実に20年7か月が経過していた。
[荒川章二]
『「メーデー事件裁判闘争史」編纂委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(1982・白石書店)』▽『岡本光雄著『メーデー事件』(1977・白石書店)』▽『田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第二巻』(1980・第一法規出版)』
サンフランシスコ講和条約発効直後の1952年5月1日,第23回メーデーに際して警官隊がデモ隊を襲い,〈血のメーデー〉といわれた事件。敗戦後,皇居前広場はメーデーなどの集会に使われ,〈人民広場〉とよばれていた。1951年のメーデーではアメリカ占領軍の指示で使用禁止となったが,翌52年,講和条約発効下で東京地裁がこの措置を違法とした。しかし政府は控訴し,禁止に固執したため,メーデー会場は明治神宮外苑に移された。会場では講和条約を売国条約とし,〈民族独立〉〈アメ公帰れ〉が叫ばれ,集会後のデモ行進は〈人民広場をとり返せ〉と皇居前広場に入った。最初に馬場先門から入った約4000名のデモ隊が休憩しているところへ,警官隊が警棒とピストル,催涙ガスで襲った。ついで祝田橋から多数のデモ隊が広場に入ると再び警官隊が襲撃,さらにデモ隊を〈掃討〉するため第3次の襲撃となった。デモ隊はプラカード,旗ざおで抵抗し,このとき路上のアメリカ軍の車が焼打ちされた。こうして死者2名,負傷者約1500名が出て1232名が検挙された。261名が騒擾(そうじよう)罪で起訴され,裁判の結果,70年1月28日の東京地裁判決は前半警官隊違法・後半騒擾罪成立とした。が,72年11月21日の東京高裁判決では騒擾罪不成立,全員無罪(一部公務執行妨害等で有罪)となり,12月5日,東京高検が上告を断念し,事件から20年7ヵ月ぶりに終結した。この事件はサンフランシスコ講和条約,日米安全保障条約の発効直後の政治反動によって引き起こされたものであった。
執筆者:梅田 欽治
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皇居前広場事件とも。1952年(昭和27)5月1日の第23回メーデーにおけるデモ隊と警官隊の衝突事件。サンフランシスコ講和条約の発効3日後に開催されたメーデーは,皇居前広場の使用が許可されず,明治神宮外苑が会場となった。大会終了後に参加者は都内のデモ行進に移った。当時人民広場とよばれた皇居前広場の使用禁止措置に不満をもつデモ隊が,共産党の武装闘争路線にも影響されて同広場に突入。警官隊もピストル・催涙弾を多用して反撃し,死者2人・負傷者多数を出す激しい乱闘となった。事件の逮捕者は1232人。261人が起訴され,騒擾(そうじょう)罪適用が争点となった裁判は大規模かつ長期化し,一審は騒擾罪の一部成立と判決したが,72年の二審判決では騒擾罪を全面不成立と認定し,結審した。
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…結末の場面で,牢獄を逃れた少女が鷹に変身する寓意は明らかだろう。発表前年の〈血のメーデー事件〉を踏まえつつ,作者は不発に終わった戦後革命期への挽歌を奏で,革命伝説の形象化をこころみている。【野口 武彦】。…
※「メーデー事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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