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モンテーニュ モンテーニュ Montaigne, Michel (Eyquem) de

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

モンテーニュ
モンテーニュ
Montaigne, Michel (Eyquem) de

[生]1533.2.28. ペリゴールモンテーニュ
[没]1592.9.13. ペリゴール,モンテーニュ城
フランス思想家モラリストラテン語を母語として育てられ,6歳でボルドーギュイエンヌ学院へ送られ,1546~50年法学を学んだ。 57年ボルドー高等法院参議となり,ラ・ボエシーと親交を結んだ。

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デジタル大辞泉の解説

モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)

[1533~1592]フランスの思想家。豊富な知識と深い人間性省察に基づく主著「随想録」は、モラリスト文学の先駆として後世に大きな影響を与えた。

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百科事典マイペディアの解説

モンテーニュ

フランスの思想家,モラリスト。ボルドー近郊の出身。ボルドー高等法院評定官などを務めたのち,1581年から4年間ボルドー市長。主著《随想録エセー)》(1580年,新版1588年)は柔軟な人間性,厳密な思考,ルネサンス人文主義の古典的教養に裏打ちされたモラリスト文学の最高傑作。
→関連項目紀行文学串田孫一クセジュ文庫シオラン人文主義プルタルコス法服貴族モラリスト

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世界大百科事典 第2版の解説

モンテーニュ【Michel Eyquem de Montaigne】

1533‐92
フランスの思想家,モラリスト。南フランス,ボルドー近郊モンテーニュの商業市民系の貴族出身。1554年からペリグー次いでボルドーの法院で評定官をつとめ,その間同僚のラ・ボエシーと親交を結ぶ。71年引退し自邸の管理と読書の生活にはいり,書きとめた感想・論考を2巻94章の《随想録(エセー)》として80年に出版する。このころ起こった腎臓結石の治療のため,翌年へかけて東フランス,スイスドイツイタリアの温泉地をめぐり,ローマの教皇庁をも訪れた。

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大辞林 第三版の解説

モンテーニュ【Michel Eyquem de Montaigne】

1533~1592) フランスの思想家。人間観察と己れの考察を書きついだ「随想録」により、ルネサンス期最大のモラリストとして批評的懐疑主義、理性的内省、寛容の精神を示した。 → 随想録

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

モンテーニュ
もんてーにゅ
Michel Eyquem de Montaigne
(1533―1592)

フランス・ルネサンス期の代表的思想家、モラリスト。『随想録』の著者。南西フランス、ペリゴール地方のモンテーニュの城館(現、ドルドーニュ県サン・ミシェルド・モンテーニュ)で2月28日に生まれる。商業で蓄財したエーケム家は、曽祖父(そうそふ)ラモンRamon Eyquem(1402―1478)の代にボルドー近郊のモンテーニュの地を買い取り、貴族(ジャンティヨム)となった。祖父グリモンGrimon Eyquem de Montaigne(1450ころ―1519)、父ピエールPierre Eyquem de Montaigne(1495―1588)の代にボルドー市政にかかわりをもつようになる。父はフランソア1世のイタリア遠征に参加し、ボルドー市長も務めた有為・公正な人物であったが、学芸についても理解があり、長男ミシェルの養育にもさまざまに配慮したとみられる。母アントアネットAntoinette de Louppes de Villanueva(1511―1601)は、スペインでの迫害を逃れてきたユダヤ人の血を引くといわれる。
 モンテーニュは幼時からラテン語の特殊教育を受け、それが後年の古典の教養の下地となった。6歳でボルドーのコレージュ・ド・ギエンヌに入り、良師に巡り会い、十分な配慮を得て成長した。その後トゥールーズの大学で法学を修めたか、あるいはパリで遊学の期間を過ごしたらしい。帰郷後ペリグーの御用金裁判所に入り、さらに1557年そのままボルドー高等法院に移った。そこでの同僚エチエンヌ・ド・ラ・ボエシーtienne de La Botie(1530―1563)と深い友情を結び、その人文主義的・ストア的精神に影響を受けたが、ラ・ボエシーは早世し、モンテーニュは友情の記憶を生涯抱き続ける。この前後、新教・旧教両派の争いが激化し、宗教戦争が起こったが、モンテーニュはパリで旧教信仰の宣誓に加わり、またルーアン包囲戦などに赴いた。1565年ボルドーの法官一族のフランソアーズ・ド・ラ・シャセーニュFranoise de La Chassaigne(1545ころ―1602ころ)と結婚、多額の持参金を得た。1568年父の死によりモンテーニュの領主となった。翌1569年、父の勧めでかねて進めていた15世紀スペインの神学者レーモン・スボンRaymond Sebond(?―1436)の『自然神学』の翻訳を出版した。これは人間理性に基づいてキリスト教信仰の真実性を説く趣旨の書物である。1570年37歳でボルドー高等法院参事を辞し、引退を決意する。「読書室(リブレリー)」を自邸の塔にしつらえ、読書と思索の生活に入るが、その後も完全に公生活から解放されたわけではない。1571年ラ・ボエシーの遺稿集を出版した。同年アンリ3世からサン・ミシェル勲章と王室伺候武官の称号を受け、宮廷人としての栄誉を得た。[大久保康明]

『随想録』とその影響

1572年ごろ『随想録』の草稿を書き始め、宗教戦争などによる中断はあったものの、1580年二巻本としてボルドーで出版した。同年持病の腎石(じんせき)症治療のため、スイス・ドイツ経由でイタリアへの旅にたった。この旅行は1年半に及ぶが、政治上外交上の目的もあったとみられる。『イタリア旅行記』Journal du voyage en Italie(1774年、没後刊)はこのおりに書かれた。イタリアには1年間滞在したが、その間にボルドー市長に選ばれたことを知り、1581年末帰国した。在任は2期4年にわたったが、とくにその後半は宗教内乱やペスト流行により多難であった。その後『随想録』に第3巻を加え、1588年三巻本としてパリで出版した。晩年はアンリ4世の政界復帰の懇請も固辞し、『随想録』の補筆に暇をあてていたが、1592年9月13日、自邸で没した。これをもとに「義理の娘(フィーユ・ダリヤンス)」グルネ嬢Marie Le Jars de Gournay(1566―1645)は著者の死後1595年に新版を出した。
 モンテーニュの生涯は文人としての活動ばかりでなく、おもに調停者としての政治的・外交的活動にもあてられ、規定しがたい広がりをもつ。その行動には、圧制を排し、異なった立場の融和を目ざす姿勢がうかがえる。宗教的にもいちおうの旧教帰依(きえ)の立場はとったが、新教派のアンリ・ド・ナバール(後のアンリ4世)とも親しく、時代の束縛から自由であろうとした。生涯親しんだ古典古代の異教的教養も、そうした姿勢に影響したであろう。唯一の著書ともいうべき『随想録』には穏和な懐疑精神が通い、事象の本質に達しえない人間理性を思いみて、自己と世界の移り行きを描く態度がある。多く援用される古今の思想的著作も、完全に彼の考えと同一化することはなく、最終的に自己が判断の主体として尊重される。モンテーニュはこの著作によってフランス・モラリスト文学の礎(いしずえ)を築いたばかりでなく、後代のフランス文学、ヨーロッパ文学に深い影響を及ぼした。[大久保康明]
『関根秀雄訳『モンテーニュ全集』全9冊(1982~1983・白水社)  ▽関根秀雄著『モンテーニュとその時代』(1976・白水社)  ▽荒木昭太郎著『人類の知的遺産29 モンテーニュ』(1985・講談社)』

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世界大百科事典内のモンテーニュの言及

【エッセー】より

…とはいうものの,ヨーロッパ文学で散文芸術の一つのジャンルとして確立された〈エッセー〉(リテラリー・エッセーとも呼ぶ)は,日本の随筆とかなり近いものと考えてよい。その功績は主としてモンテーニュに帰せらるべきであろう。彼の《随想録》(1580,88)は,深く広い思索を,くだけた気ままな文体で,気の向くままに書きとめたかたちをとっており,新しい魅力ある散文芸術様式として後世に大きい影響を及ぼしたからである。…

【懐疑論】より

…後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なおD.ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。…

【随想録】より

…フランスの思想家,モラリスト,モンテーニュの随想集。人間の性質や行動,事象や事件についての多様な主題による長短さまざまな論考3巻計107章より成る。…

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