日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヤーン」の意味・わかりやすい解説
ヤーン(Niels K. Jerne)
やーん
Niels K. Jerne
(1911―1994)
免疫学者。ロンドンに生まれたが、両親はともにデンマーク人で、デンマークとイギリスの国籍をもつ。オランダのライデン大学で物理学を学んだが、デンマークのコペンハーゲン大学に移り、医学に転向、1951年に卒業した。デンマーク国立血清研究所、カリフォルニア工科大学、世界保健機関(WHO)で研究生活を送り、1960年にジュネーブ大学の生物物理学教授に就任した。その後、ピッツバーグ大学微生物学主任教授(1962~1966年)、ドイツのヨハン・ウォルフガング・ゲーテ大学実験治療学教授(1966~1969年)、バーゼル免疫学研究所長(1969~1980年)、パスツール研究所免疫学特別顧問(1981~1982年)を歴任した。
免疫システムの解明に取り組み、1955年に生体内には抗体を産生する細胞が先天的に存在するという「抗体形成の自然選択説」を提唱した。1971年には細胞が抗原に反応するリンパ球にかわっていく抗体産生のメカニズムを示した「体細胞変異理論」を発表し、さらに1974年には、免疫系は複数の抗体が相互作用するネットワークを形成しているという「ネットワーク説」を提唱した。これら一連の「免疫系の発達と制御の特定性に関する理論」を確立したことにより、1984年にノーベル医学生理学賞を受賞した。モノクローナル抗体の生産の原理を発見したG・J・F・ケーラー、C・ミルスタインとの同時受賞であった。
[編集部]
『石田寅夫著『ノーベル賞からみた免疫学入門』(2002・化学同人)』
ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn)
やーん
Friedrich Ludwig Jahn
(1778―1852)
ドイツの体操家。ドイツの体操をツルネンTurnen(ドイツ式体操)として発展させた。彼は作業の形式より、むしろ量を重視した巧技的な運動を選んだ。1811年ベルリン郊外のハーゼンハイデにドイツで初めて体操場を開き、競走、跳躍、闘技、登はん、懸垂、耐久力と闘争精神を形成させる自然で遊戯的な運動を採用した。最初は自然の障害物を使用していたが、のちに鉄棒、平行棒、木馬などの器具を考案した。彼はとくに、体操を通して青少年に力と勇気を与え、男性的な若者を養成することに目標を置き、ドイツ式体操として、スウェーデン体操とともに世界の二大潮流をなした。
またツルネン運動は「ドイツ統一と国民教育」を目標に掲げたため、学生たちに影響を与えた。そのため、ヤーンは逮捕されたこともあるが、のち再評価され、1840年鉄十字勲章を受け、後世に「ドイツ体育の父」とたたえられた。
[上迫忠夫]
ヤーン(Hans Henny Jahnn)
やーん
Hans Henny Jahnn
(1894―1959)
ドイツの劇作家、小説家。ハンブルク生まれ。一貫して戦争を嫌い、両次世界大戦中は、ノルウェー、スイス、デンマークに亡命。25歳のときに戯曲『牧師エフライム・マグヌス』(1919)でクライスト賞を受賞。その後、悲劇『メデア』(1926)や長編小説『ペルージャ』(1929)などを次々と発表し、表現主義作家として名をあげる。代表作は三部作『岸辺なき流れ』(1949~61)。同性愛、近親相姦(そうかん)、動物偏愛などをモチーフに、人間存在を一個の肉とみなすところから生と死の謎(なぞ)めいた深淵(しんえん)を描き出している。
[今泉文子]
『種村季弘訳『十三の無気味な物語』(1984・白水社)』