ヨッフェ(読み)よっふぇ(その他表記)Абрам Фёдорович Иоффе/Abram Fyodorovich Ioffe

デジタル大辞泉 「ヨッフェ」の意味・読み・例文・類語

ヨッフェ(Adol'f Abramovich Ioffe)

[1883~1927]ソ連の外交官ドイツとのブレスト‐リトフスク講和会議ではソ連代表を務め、ドイツ・中国・日本などの大使を歴任。のち、トロツキー派として追及され、自殺。

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精選版 日本国語大辞典 「ヨッフェ」の意味・読み・例文・類語

ヨッフェ

  1. ( Adol'f Abramovič Ioffje アドリフ=アブラモビチ━ ) 旧ソビエト革命家、外交官。日本・中国・ドイツなどの大使を歴任。一九二二年から二三年にかけて中国及び日本との交渉で全権を勤めた。中国では国共合作を斡旋。のちにトロツキー派として追及され、スターリンに抗議して自殺。(一八八三‐一九二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨッフェ」の意味・わかりやすい解説

ヨッフェ(Abram Fyodorovich Ioffe)
よっふぇ
Абрам Фёдорович Иоффе/Abram Fyodorovich Ioffe
(1880―1960)

ロシア・ソ連の物理学者。ウクライナ地方ロムヌイ生まれ。ペテルブルグ高等工業専門学校を卒業して技師になったが、物理学に転じた。ドイツのミュンヘン大学に学び、レントゲンの指導を受け、1905年に卒業。翌1906年帰国してペテルブルグ高等工業専門学校に務め、ペテルブルグ大学の講師も務めた。ロシア革命後はレニングラードX線研究所の物理・工学部門を主宰し、カピッツァやN・セミョーノフら多くの人材を育てた。1926年にはアメリカに渡り、マサチューセッツ工科大学とカリフォルニア大学で結晶物理学を講じた。誘電体の物理学の研究から出発して半導体物理学に到達した。とくにその技術的応用に着目し、半導体熱電対の理論と応用を開発、正孔の概念に達し半導体光電池を製作するなどの業績をあげた。また固体物理学全般にわたって指導的役割を果たした。ソルベー会議の国際委員会メンバー(1930~1948)、国際物理学連合副会長(1957)などを務め、レーニン勲章ほか多くの栄誉を受けた。

[藤村 淳]


ヨッフェ(Jacob Joffe)
よっふぇ
Jacob Joffe
(1886―1963)

アメリカの土壌学者。近代土壌学を確立したドクチャーエフの土壌成因論を継承してアメリカでのペドロジー研究を発展させ、マーバットに次ぐ業績を残した。その著『ペドロジー』Pedologyはマーバットの死の翌年(1936)に初版が刊行され、その第2版(1949)は第二次世界大戦後、日本の土壌研究者に広く読まれた。アメリカの土壌研究は、1960年に発表された革命的ともいわれる「土壌分類案」を生んだが、それ以前のいわば古典的分類法に基づく生成分類体系の最高業績がヨッフェの『ペドロジー』に結集されている。

[浅海重夫]


ヨッフェ(Adol'f Abramovich Ioffe)
よっふぇ
Адольф Абрамович Иоффе/Adol'f Abramovich Ioffe
(1883―1927)

ソ連の外交官。ユダヤ系の富裕な商人の家庭に生まれ、10代から革命運動に加わった。ベルリン大学で医学、チューリヒ大学で法学を修めた。ロシア社会民主労働党に所属し、党内ではトロツキーに近い立場をとった。投獄と流刑を経て1917年、革命下のペトログラードサンクト・ペテルブルグ)で活動、トロツキーのグループとともにボリシェビキ党に迎えられた。革命後、外交の分野で頭角を現し、ブレスト・リトフスク講和の全権代表団の一員、ついでソビエト政府初代駐ドイツ大使となった。さらに22年に駐中国大使に就任、23年1月に孫文と共同宣言を発表し、翌月には日ソ国交回復交渉のため訪日して東京市長後藤新平と会談を行うなど、初期ソ連外交に重要な役割を演じた。20年代を通じて党内スターリン派の台頭を批判し、トロツキーの追放とジノビエフの除名に抗議して自殺を遂げた。

[原 暉之]

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百科事典マイペディア 「ヨッフェ」の意味・わかりやすい解説

ヨッフェ

ソ連の外交官。革命運動で一時シベリア流刑。1917年二月革命後ボリシェビキの幹部。外交的手腕にすぐれ,独露休戦(ブレスト・リトフスク条約)会談首席代表,駐独大使を経て中国に派遣され,1923年孫文らと交渉して第1次国共合作を準備。その間後藤新平と日ソ国交回復を交渉。トロツキー派と目されて自殺。→後藤=ヨッフェ会談
→関連項目加藤友三郎内閣

ヨッフェ

ソ連の物理学者。ドイツでレントゲンに学び,1906年帰国,ペトログラード工科大学でカピッツァ,フレンケル,セミョーノフらを教えた。革命後1932年よりレニングラード物理工学研究所長。X線,半導体,固体物理学,原子物理学等を研究。

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改訂新版 世界大百科事典 「ヨッフェ」の意味・わかりやすい解説

ヨッフェ
Adol'f Abramovich Ioffe
生没年:1883-1927

ソ連邦の外交官。クリミア半島シンフェロポリの裕福なユダヤ人商人の子。早くから社会主義運動に参加し,1902年ロシア社会民主労働党に入党した。のちベルリン大学とチューリヒ大学で医学と法学を学んだが,この間もトロツキーらと革命運動をすすめ,17年ボリシェビキ党に加わった。十月革命後は外交に手腕をふるい,ブレスト・リトフスク条約の交渉をはじめ多数の外交交渉を手がけた。23年には日ソ国交回復交渉のために来日した。ドイツ(1918),中国(1922-23),オーストリア(1924-25)の各駐在大使を歴任した。早くから神経症を病んでいたが,27年党内闘争の激化に直面し,前途を悲観して自殺した。
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朝日日本歴史人物事典 「ヨッフェ」の解説

ヨッフェ

没年:1927.11.17(1927.11.17)
生年:露暦1883.10.10(1883.10.22)
ロシアの革命家,ソビエトの外交官。クリミアの富裕なユダヤ人商人の家に生まれ,ベルリン大学で医学を,チューリヒ大学で法律を学んだ。1902年ロシア社会民主労働党に加入し,1908年にはトロツキーの新聞『プラウダ』の編集を手伝う。1912年オデッサで逮捕され,シベリア流刑となったが,1917年の2月革命のあと首都に戻り,ペトログラード・ソビエトのメンバーに選ばれる。トロツキー指導下の地区連合派(メジライオンツィ)の一員として,ボルシェヴィキに参加し,10月にはソビエト軍事革命委員会の積極的なメンバーとしてボルシェヴィキの政権獲得に貢献する。12月,ブレスト=リトフスク講和会議のソビエト代表に任命されたが,トロツキーの「戦争でも講和でもなく」の方針を支持する。1922年,ソ連の駐中国大使に任ぜられ,大正12(1923)年後藤新平の招きで日ソ国交回復の目的で来日した。スターリンによるトロツキー追放に抗議する遺書を残してピストル自殺をした。

(外川継男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨッフェ」の意味・わかりやすい解説

ヨッフェ
Ioffe, Adolf Abramovich

[生]1883.10.22. シンフィロポル
[没]1927.11.17. モスクワ
ソ連の革命家,外交官。 1902年ロシア社会民主労働党に入党,メンシェビキとして活動。 12年逮捕されシベリア流刑となった。 17年の二月革命後ボルシェビキに入党し,十月革命後外交官として活動。 18年ブレスト=リトフスク講和会議の首席代表となり,22~23年北京で中ソ国交回復交渉にあたり,22年日本と極東共和国 (1920~22年にシベリアに成立した中間的な緩衝国家) との長春会議に参加,23年上海で孫文と共同宣言を発表した (→孫文=ヨッフェ共同宣言 ) 。 L.トロツキー除名の直後,ピストル自殺をとげた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ヨッフェ」の解説

ヨッフェ
Adol'f Abramovich Ioffe (Joffe)

1883~1927

ソ連の革命家,外交官。ユダヤ人。1919年ボリシェヴィキに加入,革命政権で外交を担当。1917年独露休戦に調印した。23年には上海で孫文と,東京で後藤新平と交渉。トロツキー派として左遷され自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ヨッフェ」の解説

ヨッフェ Ioffe, Adolf Abramovich

1883-1927 ソ連の外交官。
1883年10月10日生まれ。十月革命に参加後,外交官となり,1922年駐中国大使に就任。翌年,革命後断絶していた日ソ国交の回復交渉のため来日して後藤新平,川上俊彦と会談。1927年11月17日スターリンによるトロツキーの党除名,追放に抗議して自殺した。44歳。ベルリン大卒,チューリヒ大卒。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ヨッフェ」の解説

ヨッフェ
Adolif Abramovich Ioffe

1883〜1927
旧ソ連の外交官
裕福なユダヤ人の家庭に生まれ,ロシア社会民主労働党に入党した。のちトロツキーらと革命運動を始め,ボリシェヴィキに加わった。ブレスト−リトフスク条約の交渉においては主席代表をつとめ,その他多くの外交交渉に活躍した。1923年後藤新平に招かれ日ソ国交回復交渉のため来日した。1927年自殺。

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367日誕生日大事典 「ヨッフェ」の解説

ヨッフェ

生年月日:1883年10月22日
ソ連の革命家,外交官
1927年没

ヨッフェ

生年月日:1880年10月30日
ソ連邦の物理学者
1960年没

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世界大百科事典(旧版)内のヨッフェの言及

【日ソ基本条約】より

…このころアメリカ石油資本が北樺太油田開発の着手を試みて日本海軍を強く刺激し,また,極東ソ連領漁業もソビエト政府が支配して極東共和国合併以前の漁業条約を無効とするなどの政策を推進した。これらの懸案打開のため,後藤新平は中国にいたソビエト全権代表A.A.ヨッフェを日本に招いて私的会談(後藤=ヨッフェ会談)をもち(1923年3月7日~6月16日),さらにこれを駐ポーランド公使川上俊彦との予備交渉に引きついだ(1923年6月28日~7月31日)。これらの交渉では北樺太問題,尼港事件問題,宣伝禁止問題が論議され,のちの日ソ間交渉の地ならしの役を果たした。…

※「ヨッフェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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