ラング(英語表記)Fritz Lang

精選版 日本国語大辞典 「ラング」の意味・読み・例文・類語

ラング

〘名〙 (langue) 言語学者ソシュールの用語。ある一言語社会に属する人々の「話す、聞く」という活動の中に共通している慣習としての言語体系、各個人に内在している言語体系といったような、制度化され抽象化されたものとしての言語をいう。→ランガージュパロール

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デジタル大辞泉 「ラング」の意味・読み・例文・類語

ラング(〈フランス〉langue)

言語学者ソシュールの用語。「言語」と訳される。同一言語を用いる個々人の言語活動を支え、社会制度・規則の体系としての言語。→ランガージュパロール

ラング(Fritz Lang)

[1890~1976]ドイツの映画監督。「ドクトルマブゼ」「メトロポリス」などのヒット作を手がけ、ドイツを代表する映画監督となる。のち、ナチスから逃れて米国へ亡命し、ハリウッドで活躍。他の監督作に「死刑執行人もまた死す」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「ラング」の意味・わかりやすい解説

ラング
Fritz Lang
生没年:1890-1976

ドイツおよびアメリカの映画監督。戦前のドイツの〈表現主義映画〉の代表的監督として,また戦後のハリウッドのスリラー映画の名匠として知られる。ウィーン生れ。建築と美術を学び,第1次世界大戦で負傷して入院中に書いた脚本がヨーエ・マイJoe May監督(1880-1954)によって映画化されたのち,プロデューサーのエーリヒ・ポマーに認められて映画界に入り,1919年にデッカ社の監督となる。敗戦後の〈時代の一つの記録〉といわれる《ドクトル・マブゼ(《マブゼ博士》)》(1922),民族的伝説を壮大に映画化した《ニーベルンゲン》(1924),未来都市を空想的に描いてSF映画の古典となった《メトロポリス》(1926)が世界的に注目され,また,少女殺しの実話をもとにした最初のトーキー作品《M》(1932)は,音と画面との対位法を効果的に用いた歴史的傑作とされているが,公開されてから3年後には,ナチスの禁止映画のリストに載せられた。そしてまた,《ドクトル・マブゼ》の第2部,ラングによれば〈ヒトラーが用いたテロリズムの方法を示す寓話〉であり〈ナチズムの秘密の理論を暴露しようとした〉《怪人マブゼ博士》(1932)は,ナチスによる禁止映画第1号となった。にもかかわらず,ヒトラーとともに《ニーベルンゲン》を激賞するゲッベルスに,宣伝省映画局長への就任を懇望されたラングは,ユダヤ人である自分を利用しようとする魂胆を察知してフランスへのがれ,《リリオム》(1933)をつくったのちアメリカへ渡った。

 35年,ドイツ人亡命者として市民権をあたえられ,アメリカ民主主義の汚点である私刑(リンチ)の問題を中心に,アメリカ社会の矛盾や非情さを告発した三部作,《激怒》(1936),《暗黒街の弾痕》(1937),《真人間》(1938)をはじめ,西部劇(《地獄への逆襲》1940,《西部魂》1941,《無頼の谷》1952)やスリラー(《死刑執行人もまた死す》1942,《飾窓の女》1944,《外套と短剣》1946,《復讐は俺に任せろ》1953,等々)をふくめて《口紅殺人事件》(1956)にいたるまで,しばしば〈妥協〉をしいられながらも20本あまりの映画を撮って,〈亡命映画人〉としてハリウッドに足跡を残した。58年にヨーロッパへもどり,第1部《王城の掟》と第2部《情炎の砂漠》からなる二部作の冒険スペクタクル《大いなる神秘》(1959)を撮るが,それにつづく西独・仏・伊合作映画《怪人マブゼ博士》(1960)が最後の監督作品となった。ジャン・リュック・ゴダール監督《軽蔑》(1963)に〈フリッツ・ラング監督〉の役で出演したのちアメリカへ帰り,ビバリー・ヒルズで余生を送った。
執筆者:

ラング
Dorothea Lange
生没年:1895-1965

アメリカの女性写真家。ニュージャージー州ホボケンに生まれた。フォト・セセッションの創立メンバーの一人であるC.H.ホワイト(1871-1925)の下で写真を学んだ。のちにサンフランシスコでスタジオを開き,E.ウェストンA.アダムズらの〈f64グループGroup f64〉の写真家たちと親交を結ぶ。1935年からFSA(農地保全管理局)のスタッフ写真家となり,大恐慌で荒廃した農村地帯(特に移住労働者)のすぐれたドキュメントを撮った。それらの写真は,ときにJ.スタインベックの小説《怒りの葡萄》に比すべきものとも評され,厳しい現実に立ち向かう人間の悲惨な姿を正確にとらえたばかりでなく,尊厳にあふれたたくましさをも同時にとらえている。第2次大戦後は体を悪くして,あまり活動を行っていない。
執筆者:

ラング
Andrew Lang
生没年:1844-1912

イギリススコットランド)の文筆家,文学者で,児童読物,昔話集,文芸批評,詩,随筆,スコットランド史などについて多くの著作があるが,ことに神話研究の先駆者として知られる。《習慣と神話》(1884)や《神話,儀礼,宗教》(1887)において,当時さかんだったF.M.ミュラー提唱の,すべての神話を太陽神話とし,かつ神話が言語の疾病から発生したという説を痛烈に批判し,神話は原始的な文化段階において,慣習を反映して発生したと論じた。彼の原始一神教説は,民族学者W.シュミットに大きな影響を与えた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ラング」の意味・わかりやすい解説

ラング

ドイツおよび米国の映画監督。ウィーン生れ。《ドクトル・マブゼ》(1922年),《メトロポリス》(1926年),《M》(1931年)などにより,表現主義映画を代表する監督となる。ユダヤ人でありながら,その才能を買われてナチス・ドイツより宣伝省映画局長への就任要請を受けるが,これを嫌いフランスをへて1934年米国に亡命。ハリウッドで《暗黒街の弾痕》(1937年),B.ブレヒト脚本の《死刑執行人もまた死す》(1943年),G.グリーン原作の《恐怖省》(1944年)などを監督して,スリラー映画の巨匠となった。
→関連項目ムルナウ

ラング

スコットランド出身の文筆家。ギリシア・ローマ古典,特にホメロスを研究。未開民族の神話的存在を古典神話の神々と比較考察し,F.M.ミュラーの学説に疑問を呈した。著書《神話・儀礼・宗教》など。また,子どもたちのために各国の昔話を再話。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラング」の意味・わかりやすい解説

ラング
Lang, Fritz

[生]1890.12.5. オーストリア=ハンガリー帝国,ウィーン
[没]1976.8.2. アメリカ合衆国,カリフォルニア,ロサンゼルス
ドイツの映画監督。1919年に脚本家から監督となる。神秘的雰囲気の作品『死滅の谷』 Der müde Tod (1921) で名をあげ,以後『ドクトル・マブゼ』Dr. Mabuse,der Spieler (1922) ,『ニーベルンゲン』Die Nibelungen (1924) ,『メトロポリス』Metropolis (1926) ,『M』 (1931) と秀作を発表,ドイツ映画界を代表する一人となったが,1933年にフランスへ亡命。1936年からアメリカ合衆国で多くの映画を撮った。アメリカでの主作品は『激怒』Fury (1936) ,『暗黒街の弾痕』You Only Live Once (1937) 。

ラング
Lange, Dorothea

[生]1895.5.26. ニュージャージー,ホーボーケン
[没]1965.10.13. サンフランシスコ
アメリカの女性記録写真家。 20歳のときサンフランシスコに移って写真館を開き,大恐慌下の失業者の悲惨な実態の記録『白い天使のパンの行列』 (1932) を発表。 1934年カリフォルニアの移住労働者の貧しい生活の記録を依頼され,これが官立キャンプ設立のキャンペーンに発展した。その後 W.エバンズと南部の荒廃した農村を撮り,『出アメリカ記』 (1939) などが反響を呼んだ。日系アメリカ人の強制収容所の記録 (1941) なども著名。事実に対する誠実,正確な作風は,記録写真の典型として大きな影響を与えた。

ラング
Lang, Andrew

[生]1844.3.31. セルカーク
[没]1912.7.20. バンチョリー
イギリスの古典学者,民俗学者,詩人,小説家。スコットランド出身。セントアンドルーズ,オックスフォード両大学で学び,オックスフォードで教えたのち,1875年にロンドンに定住し『デーリー・ニューズ』紙その他に寄稿。詩や小説のほか,民話収集で知られた。民俗学者としては一神教の原始的起源を説き,古典学の分野ではホメロスの翻訳と研究で著名。主著『風習と神話』 Custom and Myth (1884) ,『ホメロスの世界』 The World of Homer (1910) 。

ラング
langue

ソシュールの用語。彼は複雑で混質的なランガージュ (言語活動) を,ラングとパロールに識別し,ラングを本質的,等質的,社会的な言語体系として規定した。たとえば日本人が日本語を用いて意志の伝達が可能なのは,成員すべてに等質で共通な日本語の規則が了解されているからであるとする見方である。ソシュールのラングとパロールの区別の説明には,曖昧な点,修正を要する点はあるが,言語現象において,繰返し現れるものと,一回的なものとの区別を指摘しようとした功績は大きい。

ラング
Lang, (Alexander) Matheson

[生]1879.5.15. モントリオール
[没]1948.4.11. 西インド諸島,ブリッジタウン
イギリスの俳優。 1897年デビュー。 F.R.ベンソンの劇団その他に加わってアメリカなどを巡業していたが,1900年ロンドンに現れ,ベドレン=バーカー時代のロイヤル・コート劇場で G.B.ショーや H.イプセンの作品に出演。また劇団を結成し,シェークスピア劇などを世界各地で上演した。当り役はオセロ,ロミオ,ミスター・ウーなど。自伝『ミスター・ウーの回想』 Mr. Wu Looks Back (1940) がある。

ラング
Lang, Pearl

[生]1921.5.29. イリノイ,シカゴ
[没]2009.2.24. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の舞踊家。1942年から 10年間にわたってマーサ・グラハム舞踊団のソリストとして活躍し,『心の洞穴』『世界への手紙』などに主演した。1952年自身の舞踊団を組織し,『デボラの歌』『夜の飛行』などを発表,その間グラハム舞踊団の客演を務め,またブロードウェー・ミュージカルにも出演した。

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岩石学辞典 「ラング」の解説

ラング

ノルムから計算した任意の鉱物の比率を基礎にしたCIPW分類法の分け方の一つで,クラスI, II, IIIはサリックのK2Oと(Na2O+CaO)の比率を基礎とし,クラスIV,Vは(MgO, FeO, CaO)と(K2O, Na2O)の比率を基礎にしたものである.

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世界大百科事典(旧版)内のラングの言及

【古本】より

…S.ピープスの日記等には当時の古書の流通状況が語られている。やがてノディエ,ナポレオン,ディブディンT.F.Dibdin,ニュートンA.E.Newton,ラングA.Langらの愛書家(愛書趣味)が生まれ,古書を収集する趣味が流行するようになった。またブレーズW.Bladesのように古書を人類の知的遺産とみなし,これを保存するのは後続世代の義務だとする主張も現れ,古書の価値が広く認識されるようになった。…

【古本】より

…S.ピープスの日記等には当時の古書の流通状況が語られている。やがてノディエ,ナポレオン,ディブディンT.F.Dibdin,ニュートンA.E.Newton,ラングA.Langらの愛書家(愛書趣味)が生まれ,古書を収集する趣味が流行するようになった。またブレーズW.Bladesのように古書を人類の知的遺産とみなし,これを保存するのは後続世代の義務だとする主張も現れ,古書の価値が広く認識されるようになった。…

【M】より

…1932年製作。《ニーベルンゲン》(1924)でドイツ表現主義映画を完成させたフリッツ・ラングのネロ社製作によるトーキー第1回監督作品。デュッセルドルフで起きた子ども殺害事件に取材し,小市民的な外見とおびえた表情の殺人狂(ピーター・ローレ)が強烈な印象を与えて,以後,映画に登場する社会から疎外された犯罪者像の原型となった。…

【スリラー映画】より

…さらにヨーロッパからハリウッドへ亡命あるいは移住してきた若い監督たちが,そのみずみずしいヨーロッパ感覚で,それまでアメリカ映画にはなかったまったく異質の心理的スリラーをつくって大きな刺激を与えたこともあった。オットー・プレミンジャー監督の《ローラ殺人事件》(1944),フリッツ・ラング監督の《飾窓の女》(1944),ビリー・ワイルダー監督の《深夜の告白》(1945),ロバート・シオドマク監督の《らせん階段》(1945)等々がそれである。 いわゆる〈セミ・ドキュメンタリー〉の手法を用いたスリラー映画も流行し,FBIの記録にもとづく《Gメン対間諜》(1945),実際の殺人事件を描いた《影なき殺人》(1947),集団脱獄事件を描いた《真昼の暴動》(1947),殺人犯の追跡を描いた《裸の町》(1948),FBIの記録による《情無用の街》(1948)などがつくられ,ルイ・ド・ロシュモントLouis de Rochemont(1899‐1978)のセミ・ドキュメンタリー・スタイルのニュース映画《ザ・マーチ・オブ・タイム》(1935‐51)に示唆されたといわれるこれらの映画の傾向は〈ニュー・リアリズム〉ともよばれた。…

【ドイツ映画】より

…第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラート・ファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。…

【マブゼ博士】より

…ドイツ映画。怪奇探偵映画の傑作として知られるフリッツ・ラング監督作品で,サイレント作品とトーキー作品2本(続編およびリメーク)がある。最初の作品は1922年製作,日本公開題名は《ドクトル・マブゼ》,原題は《Dr.Mabuse,der Spieler(賭博者マブゼ博士)》で,表現主義映画の代表作の一つに数えられている。…

【メトロポリス】より

…1926年製作のドイツ映画。フリッツ・ラング監督作品。1924年にアメリカを訪れたラングが,ニューヨーク港の船上からマンハッタンの摩天楼を望見してアイデアを得たという21世紀の未来都市の物語である。…

【ライフ】より

…それは複数の写真の組合せとキャプションとにより,視覚的な解説以上にテーマの内面的な真実へと迫ろうとする試みであった。〈フォト・エッセー〉という新しい方法への意識の確立は,すでに1937年のアイゼンシュテットによる《ワッサー女子大学》という組写真に対する,編集者の〈エッセイストとしてのカメラ〉という解説にも示されており,のちレナード・マッコムの,地方からニューヨークへ来て働きながらファッション・モデルになることを夢みる一人の女性の日常を追った《グウィンド・フィリングの私生活》(1948),フランコ政権下で昔ながらの伝統的な生活をする寒村の人々を描いたユージン・スミスの《スペインの村》(1951),アメリカのアイルランド系移民たちの姿を撮ったドロシア・ラングの《アイリッシュ・カントリー・ピープル》(1955)など,50年代を中心にして数多くの傑作が生まれた。《ライフ》はこれらの写真によって,いわゆるニュース写真では知ることのできない〈日常的な世界の中の隠された真実〉を読者に伝え,フォト・ジャーナリズムの新しいあり方を打ち立てたということができよう。…

※「ラング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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