ルイ9世(その他表記)Louis Ⅸ

改訂新版 世界大百科事典 「ルイ9世」の意味・わかりやすい解説

ルイ[9世]
Louis Ⅸ
生没年:1214ころ-70

カペー朝第9代のフランス王。在位1226-70年。〈聖王〉〈サン・ルイSaint Louis〉と呼ばれる。敬虔な信仰に生き,ローマ教会によって列聖(1297)されたためである。ポアッシー生れ。即位後の10年は母后ブランシュ・ド・カスティーユの摂政下にあり,この間,母后は年少の国王に対する封建諸侯の反乱を鎮定し,トゥールーズ伯レーモン7世との和約(1226)により,アルビジョア派征討を終え,ラングドックの王領化の道を開いた。ルイは内政・外交ともに正義と平和を旨としたから,彼の親政下で国内は平穏で,学問,芸術,慈善事業を振興し,パリにソルボンヌ神学校(のちパリ大学の一部となる)を創設した(1257)。また聖俗諸侯による国王諮問会議から,高等法院と会計院が独立し,国王金貨の基準が設けられて,経済の安定がもたらされた。対外政策の面でも,彼の平和主義は,ピレネー山脈を国境としてその彼方からフランス勢力を撤収させて,アラゴンとの国境紛争を解消させたコルベーユ条約(1258),ノルマンディーアンジュートゥーレーヌなどをフランス領とする代りにギュイエンヌなど南フランスの諸地をイギリスに与えたパリ条約(1259)に,よくその意図をうかがうことができる。彼の徹底した正義と平和の理念は,フランス王権の威信を国際的にも高めることになり,西ヨーロッパ諸国の国内紛争に関しても彼が調停を依頼されるほどであった。なかでもイギリス王ヘンリー3世とイギリス諸侯の争いを解決した〈アミアン裁定〉(1264)は有名である。その一方,篤信のキリスト教徒として,異教徒との戦いに情熱を傾ける中世的理想主義の立場から,十字軍の運動には積極的に参加した。第7回十字軍(1248-54)ではエジプトに遠征して捕虜となり,第8回十字軍(サン・ルイの十字軍,1270)ではアフリカのチュニスに病死するなど,十字軍史の最後を飾るエピソードを残した。祝日は8月25日。
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美術作品に表されるときは通常,王冠と王室の紋章である白百合紋(フルール・ド・リス)のついた豪華な衣装をつけ,笏杖,剣,十字旗などを携える。持物として,彼が入手したキリストの茨の冠,磔刑の3本の釘,十字架の一部,彼がパリに建立したサント・シャペルゴシック様式)の模型などをそなえる。シャルルマーニュ(カール大帝)とともに表されることも多い。作例は,彫刻,ステンド・グラス,絵画,写本画などに残る。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイ9世」の意味・わかりやすい解説

ルイ9世
ルイきゅうせい
Louis IX, Saint Louis

[生]1214.4.25. ポアッシー
[没]1270.8.25. チュニス付近
フランス王 (在位 1226~70) 。カペー家出身。「聖ルイ」とも呼ばれる。ルイ8世の長男。フランス封建王政の最盛期の王で,正義の王とされた。幼年で即位し,1235年まで母后ブランシュ・ド・カスティーユが摂政をつとめたが,この間のすぐれた統治によりのちの繁栄の基礎が築かれた。親政初期,イングランド王ヘンリー3世に支援された貴族の反乱をタイユブール橋の合戦 (42) で破り,さらにヘンリー自身をブライユに追撃。 43年の休戦以降王国内に大きな動揺の生じることはなかった。諸侯間の調停者として王領内の私戦を禁じ,国王政府から裁判部門である高等法院を独立させ,標準通貨の品位を確定し,地方を監察する巡察官制を定め,王領は,大西洋から地中海にまで拡大した。また2度十字軍遠征を行なった。すなわち 48年第7次十字軍を率いてエジプトに遠征し捕虜となったが,その人柄がイスラム教徒によく理解されて「正義のスルタン」と呼ばれた。釈放後聖地に巡礼して帰国。 70年国内の反対を押して第8次十字軍をチュニスへ発進させ,同市を攻囲したが,疫病のため陣中に没した。神の代理としての王,殉教の王とたたえられ,民衆のなかにも王の権威が浸透し,97年聖人に列せられた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ルイ9世」の解説

ルイ9世(聖王)(ルイきゅうせい(せいおう))
Louis Ⅸ (Saint Louis)

1214~70(在位1226~70)

フランス国王。12歳で登位,最初の10年間は賢母ブランシュ・ド・カスティーユが摂政。フィリップ2世の事業をついで王領内集権化を促進,対外的には,イングランド王ヘンリ3世からノルマンディ,アンジュー,メーヌ,ポワトゥー諸地方を獲得(パリ条約,1259年)。またラングドック地方も王領化した。内治ではパリ高等法院・会計院の創設,国王役人の監督強化,王領内私戦と法廷決闘の禁止,施療院の建設,「聖堂」建立などに功績。第6・第7十字軍に参加,チュニスで病没。友人ジョワンヴィルによる伝記は有名。

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367日誕生日大事典 「ルイ9世」の解説

ルイ9世

生年月日:1214年4月25日
フランス国王(在位1226〜70)
1270年没

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世界大百科事典(旧版)内のルイ9世の言及

【エーグ・モルト】より

…エーグ・モルトとは〈死んだ水〉の意であり,東方に広がるカマルグ地方につらなる潟湖の内水に由来する。1240年,カペー朝国王ルイ9世(聖ルイ)が,この地を買収し城郭を建設させた。当時,ルイの王権はフランス北部を勢力範囲としており,地中海への足がかりを欠いていたため,この地を基地として重視した。…

【カペー朝】より

…フランスの王朝。987年,ルイ5世の死によって西フランクにおけるカロリング家の血統が絶え,フランス公のロベール家からユーグ・カペーが選立されて王位についたのに始まる。以後シャルル4世がカペー家直系の男子相続人なしに死亡する1328年までフランスに君臨した王朝で,この王朝の誕生とともにフランス国家の歴史が始まった。…

【ジョアンビル】より

…フランス,シャンパーニュ地方の貴族で,《聖王ルイの歴史Histoire de Saint Louis》の著者。仏王ルイ9世の率いる第7回十字軍にあとから加わり,1249年エジプトで王軍とともに戦い,共に捕らわれの身となる。…

【フランス】より

…彼らは優れた鉄器文化をもち,前5世紀ころには,ラ・テーヌ文化の名で知られる最盛期を現出した。カエサルの《ガリア戦記》によれば,ケルト人は多くの部族に分かれ,広い土地を所有する貴族と祭儀をつかさどる神職ドルイドが,平民を統轄していた。霊魂の不滅を信じ,樹木や泉を崇拝するケルトの信仰は,キリスト教が導入されたのちも,民間信仰の形で生き続けている。…

※「ルイ9世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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