改訂新版 世界大百科事典 「ラングドック」の意味・わかりやすい解説
ラングドック
Languedoc
フランス南西部の地方名。18世紀までの古い州名に由来する。範囲については,現今では多少の異同があるが,一応は次の各部分からなる。エロー,ガール,アルデシュ各県,オート・ガロンヌ,タルン県の大部分,オート・ロアール,ロゼール,タルン・エ・ガロンヌ,アリエージュ県の一部。地理的には,東をローヌ川,南東を地中海(リオン湾)で仕切られ,北はマシフ・サントラル(中央山地)の南端を含みつつも,ほぼこの山地で区切られる。南西は狭いリュション,フォア地方をはさんでピレネー山脈に近い。西は,ガロンヌ川平原のガスコーニュ地方と接する。ローヌ川およびオード川沿岸の平野部は肥沃であるが,地中海岸と中央高地にはさまれる地域は石灰岩が露出するやせた荒地(ガリグと呼ばれる)となっている。海岸地域は砂丘と湿地,沼地である。地中海式気候に属し,全体に温和であるが,冬は北風ミストラルやピレネーおろしの強風が吹き,夏は酷暑となる。現在の主要な都市はトゥールーズ,ナルボンヌ,ニーム,モンペリエ,ベジエ,アルビなどである。
先史時代には,地中海諸部族,ケルト(ガリア)人が居住していたが,前2世紀後半ローマが進出して,前121年属州となり,ガリア・ナルボネンシスの主要部をなした。東に隣接するプロバンスと同じく,ローマ文化の隆盛を迎え,その様子は現存する水道橋(ポン・デュ・ガール)や円形競技場(ニーム)などの遺跡にうかがえる。西ローマ帝国の弱体化に伴って移動してきた西ゴート族が,イタリアから西征してラングドック西部を居住地とし,419年トゥールーズを首府とする王国を建てた。西ゴート領はその後ピレネー山脈を越えてイベリア半島に拡大していき,他方ラングドックは,北方からのフランク族の南下によって,徐々にフランク王国領に編入されていった。8世紀前半から,アラブ人イスラム教徒の侵入が始まり,西ゴート王国は崩壊,732年トゥール・ポアティエの戦で,フランク王国がこれを撃退したのちも,イスラム教徒はラングドックにとどまった。ナルボンヌ港にはイスラム商人が多く訪れ,しばしばローヌ川の下流域にまで達した。カール大帝の遠征によって,ラングドックはスペイン北部とともにフランク王国の辺境領に編入されたが,イスラム教徒は,略奪や商業のために地中海岸に現れた。
この不安定な状態に終止符を打ったのは,924年トゥールーズ伯領の建設である。同伯領は北方および東方に領域を拡大し,現今のラングドック地方の大半を支配するに至った。トゥールーズ伯のもとに,ラングドックの南フランス文明は12~13世紀に絶頂を極めた。ローマ文明の遺産は活力をとりもどし,都市生活の伝統やローマ法が再生した。ロマネスク様式の教会建築が成熟し,トゥールーズやモアサックを代表作として,各地に建設された。モンペリエ大学は法学と医学とによって南フランスを代表する知的中心となった。トルバドゥールの詩人音楽家が,トゥールーズ伯宮廷をはじめ,封建諸侯の周辺で活躍した。トルバドゥールは,ラテン語ではなく,俗語である南フランス語を使用して,甘美な抒情詩を制作した。その南フランス語では,肯定の副詞(英語のyes)を〈オックoc〉というが,北フランス語ではそれを〈オイルoïl〉といった。前者はオック語langue d’oc,後者はオイル語langue d’oïlとも呼ばれる。ラングドック地方の名称はこれに由来する。両言語は同じロマンス系諸語に属しつつも,別個の言語である。近代フランス語の祖となったオイル語に対して,オック語は同化されつつも存在を保ち,のちに19世紀に復興の試みが行われることになる(オクシタン)。
ラングドック文化の隆盛は,12世紀後半から浸透したキリスト教異端のカタリ派にもみられる。マニ教的な善悪二元論と厳格な禁欲と集団規律をもったカタリ派は,現世の欲望ばかりか教会組織の権威をも否定して,ローマ教皇庁に激しく対立するに至った。カタリ派はイタリアやフランスのほかの地方,スペイン北部にも広がったが,とりわけラングドック社会の各階層に浸透し,都市の上層市民や諸侯の支持も集めるなど,巨大な運動に発展した。ローマ教皇インノケンティウス3世は,カタリ派の禁圧を目ざして,1209年十字軍を勧講し,これにこたえて,フランス王フィリップ2世は軍事遠征を行った。この十字軍は,ベジエ,アルビなど都市全体を挙げての抵抗にあって苦戦し,29年までの20年間を費やして,ようやく異端運動を鎮圧した。城壁化された教会に拠ったアルビ市の籠城戦にちなんで,アルビジョア派,アルビジョア十字軍とも呼ばれる。アルビジョア十字軍は,キリスト教異端の騒動鎮圧にあたったが,実際にはカペー王朝をはじめとする北フランス諸侯による南フランス征圧戦という性格を強くもっている。その結果,まず伯領の東部は29年フランス王の支配下に入り,残りも13世紀後半カペー家出身で,フランス王ルイ9世の弟アンジュー家シャルルによって統合される。ローヌ川河口に近いカマルグのエーグ・モルトは,12世紀中葉ルイ9世によって十字軍の海軍基地として建設されたものである。しかしこの間にも北スペインのアラゴン王国の圧迫をうけるなど,政治上の不安定は続いた。アルビ,ベジエ,カルカソンヌなどの堅固な城砦都市は,その後も政治的紛争の場となった。
ラングドックは形式上はフランス王国に統合されたが,社会的にも文化的にも,北方とは異質な伝統をもち,政治上は地方高等法院の自立的な特権が確立され,アンシャン・レジーム下においても,フランス革命に至るまでの数世紀間,遠心的な性格が保存された。とりわけ16世紀の宗教戦争にあっては,プロテスタント(カルバン派)勢力の中心地の一つとなり,戦争終結後も勢力は残存した。18世紀前半,セベンヌ山地に拠った新教徒は,カミザール(シャツを意味するオック語に由来するという)を名のって,反乱に至り(カミザールの乱),かつてのアルビジョア十字軍を想起させる包囲戦を繰り広げた。大革命によって,地方的特権は撤廃され,ラングドックは解体されたが,中央政府に対する遠心性は持続され,ナポレオン3世の第二帝政にあっても反対勢力を生んだ。
近代フランスにあっては,後進地域におかれたが,19世紀後半,石灰岩の荒地にブドウ栽培が広がり,鉄道開通とともに,主要産業の地位にのぼった。天候に恵まれて生産量は急増し,現在でも安価のブドウ酒の産地として大きな地位を占めている。オード川沿いの穀物,ローヌ川沿いの園芸作物のほかは,ブドウ栽培の単作を行っていたが,20世紀に入って,灌漑,干拓などにより農業の複合化が計画されている。また19世紀における地中海と大西洋を結ぶミディ運河およびスエズ運河の開通は,南フランスの産業に刺激を与えた。
第2次大戦後の変化としては,第1に地中海岸のバカンス基地化があげられる。砂丘や砂嵐,毒虫などの悪条件を克服して,一般勤労者向けのリゾートが造成された。第2には,トゥールーズ近辺における産業基地化であり,ピレネー山脈の水力資源に基づき,さらには太陽発電や航空機産業などによって先進技術の拠点と化しつつある。
ラングドックは,中世の南フランス文明の中心地として古来高度な文化を生み出してきたが,ルネサンス期には作家F.ラブレー,近代にはニーム生れの作家A.ドーデやセート生れのP.バレリー,画家H.de T.ロートレックらが南フランスの感性をうたいあげた。
執筆者:樺山 紘一
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