ロシア社会民主労働党(読み)ロシアシャカイミンシュロウドウトウ

  • Rossiyskaya Sotsial-Demokraticheskaya Rabochaya Partiya
  • Russian Social Democratic Labor Party 英語
  • Российская сочиалдемократическая рабочая партия/Rossiyskaya sotsial-demokraticheskaya rabochaya partiya ロシア語
  • ロシアしゃかいみんしゅろうどうとう ‥シャクヮイミンシュラウドウタウ
  • ロシアしゃかいみんしゅろうどうとう〔シヤクワイミンシユラウドウタウ〕
  • ロシア社会民主労働党 Rossiiskaya sotsialdemokraticheskaya rabochaya partiya

百科事典マイペディアの解説

ソビエト連邦共産党の母体。1898年創立宣言を発表。1903年第2回大会で政治的自由獲得,8時間労働制,農奴制全廃等の綱領を決定したが,ボリシェビキメンシェビキに分裂した。ボリシェビキはレーニン,メンシェビキはマルトフらが指導者。1905年の第1次ロシア革命時には両派は一定の統一行動をとったが,革命後は実質的統一はできず,1912年ボリシェビキは事実上独立の党となり分裂は固定化。第1次大戦中,戦争の問題をめぐって新しい形での分裂が進行。1917年ボリシェビキは十月革命を指導して,やがてロシア共産党と改称。メンシェビキは内部分裂を繰り返し反革命勢力となった。
→関連項目イスクラエス・エル党カリーニンコミンテルンジェルジンスキージノビエフストルーベスベルドロフスルタン・ガリエフパルブスプレオブラジェンスキープレハーノフ

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世界大百科事典 第2版の解説

ロシアのマルクス主義政党。マルクス主義が社会民主主義としてロシア人に初めて受容されるのは,亡命中のプレハーノフらが1883年ジュネーブで創立した〈労働解放団〉による。プレハーノフは後進国ロシアの当面する革命は専制打倒のブルジョア革命だとし,二段階革命を主張した。社会民主主義者のグループがロシアに現れるのは1880年代後半からである。運動はおもにポーランドとロシア西部諸県,特にユダヤ人の間で始まり,数年遅れで各地に広がった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシアのマルクス主義政党。ロシア人にマルクス主義が社会民主主義として受け入れられたのは、1883年にプレハーノフらがナロードニキ主義と決別して亡命地ジュネーブで創立した「労働解放団」においてである。彼らは、ロシアが西ヨーロッパ諸国同様、資本主義を通過すること、したがって当面する革命はブルジョア革命であると主張した。その後ロシア国内で生まれたマルクス主義者のグループが、全ロシア的組織の結成に向かい、1898年にミンスクでロシア社会民主労働党の結党大会を開いた。この大会は、ストルーベの筆になる「ヨーロッパの東へ行くほどブルジョアジーは弱体になり、文化的・政治的任務がプロレタリアートに降りかかる」という有名な宣言を発したが、参加した活動家の一斉逮捕によって活動は中断した。

 党の再組織のためのイニシアティブをとったのは、レーニン、マルトフらが新聞『イスクラ』の刊行のために1900年に組織したグループである。その結果、03年夏、事実上の結党大会となった第2回党大会がブリュッセルとロンドンで開かれた。しかしこの大会で、党規約第1条をめぐり、イスクラ・グループが、職業的革命家の党を目ざすレーニン派と、より広い活動家も党員に含めようとするマルトフ派とに分裂、前者がボリシェビキ(多数派)、後者がメンシェビキ(少数派)とよばれるようになった。両派の対立はその後も続き、ボリシェビキは、18年、党名をロシア共産党(ボリシェビキ)と変更、メンシェビキの一部は国外での活動を続けた。

[藤本和貴夫]

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精選版 日本国語大辞典の解説

ロシアのマルクス主義政党。一八九八年の第一回、一九〇三年の第二回大会を経て結成。八時間労働制、農奴制全廃をスローガンとした。一九〇三年の第二回大会でボルシェビキとメンシェビキに分裂、一九一二年に後者を党外に追放し、レーニンの率いるボルシェビキが一九一七年のロシア革命を指導し、翌年ロシア共産党と改称した。

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旺文社世界史事典 三訂版の解説

1898年ミンスクで結成されたロシアのマルクス主義政党。略称RSDRP
プレハーノフ・レーニンらにより組織され,プロレタリアートを支持基盤に,階級闘争による社会主義革命の実現を目ざした。しかし,1903年ロンドンでの第2回党大会で正式に発足すると同時に,党組織の原則を巡って,レーニンの率いるボリシェヴィキ(多数派)と,プレハーノフ・マルトフらを中心とするメンシェヴィキ(少数派)に分裂した。1912年プラハ党会議で両派は完全に分離。1917年ロシア三月革命が起こると,初めメンシェヴィキが優勢であったが,ボリシェヴィキはしだいに労働者の多数の支持をえて十一月革命で政権を獲得し,翌18年ロシア共産党と改称した。

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世界大百科事典内のロシア社会民主労働党の言及

【ソビエト連邦共産党】より

…ロシア革命(十月革命)によって誕生したソ連邦を支配した唯一の政治組織で,事実上の国家機関でもあった。1898年ロシア社会民主労働党として発足,ロシア革命後の1918年ロシア共産党(ボリシェビキ)Rossiiskaya Kommunisticheskaya partiya(bol’shevikov),25年全連邦共産党(ボリシェビキ)Vsesoyuznaya Kommunisticheskaya partiya(bol’shevikov)へと名称が変化し,52年にソ連邦共産党となった(以下,党と略称)。1991年8月クーデタの後,書記長ゴルバチョフが解散を勧告,書記長を辞任して,事実上解体した。…

【プレハーノフ】より

…彼はこのような非連続的二段階革命論を終生保持し,時期尚早のプロレタリア革命は東洋的専制主義への逆転をうむと考えた。《イスクラ》刊行を通じてロシア社会民主労働党の再建にレーニンらと協力,1903年の第2回大会でレーニンとマルトフらが対立すると,やがてメンシェビキの側に加わった。05‐06年の第1次革命において革命戦略,農業綱領をめぐってレーニンと対立したが,反動期には解党派と闘った。…

【ロシア革命】より

…同年7月,内相プレーベが首都の路上で暗殺され,代わった内相スビャトポルク・ミルスキーPyotr D.Svyatopolk‐Mirskiiは譲歩路線に転換し,〈自由主義者の春〉が現出した。 政治党派としては,20世紀の初めよりマルクス主義者の党であるロシア社会民主労働党(以下〈社会民主党〉と略す)とナロードニキ系のエス・エル党が生まれ,活動していたが,全局を制したのは自由主義者たちであった。反政府的な地主層は,ゼムストボ(地方自治体)代表者の大会を開催して圧力を加え,解放同盟Soyuz osvobozhdenie(カデットの前身)に入っている自由主義的知識人は政治的デモンストレーションを目的とする解放宴会をくりかえし,立憲政治を要求したのである。…

※「ロシア社会民主労働党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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