血の日曜日事件
ちのにちようびじけん
Krovavoe Voskresen'e
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血の日曜日事件【ちのにちようびじけん】
1905年1月22日(ロシア暦9日)日曜日,ロシアの首都ペテルブルグで起きた虐殺事件。司祭ガポンに率いられた労働者とその家族14万人は生活苦の救済,制憲議会召集などを訴える皇帝ニコライ2世への請願書を持って冬宮へ行進したが,待機した軍隊の一斉射撃で死者1000人以上,負傷者2000人以上を出した。第1次ロシア革命の発端。
→関連項目サンクト・ペテルブルク
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ちのにちようびじけん【血の日曜日事件 Krovavoe voskresen’e】
1905年1月22日(ロシア暦では9日)ロシアの首都ペテルブルグで起こった,労働者たちへの発砲事件。発端は司祭ガポンの組織する官製労働組合員の解雇事件であった。これに抗議するストライキが1月16日より始まり,たちまち全市に波及した。20日にはその数は382工場10万人に達した。この過程でガポンは抑圧され,無権利状態にある自分たちの窮状と要求を直接皇帝ニコライ2世に訴えるため,請願書を提出することを提案した。
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知恵蔵「血の日曜日事件」の解説
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世界大百科事典内の血の日曜日事件の言及
【ロシア革命】より
…軍隊がこれに発砲し,政府発表では130人,革命家の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。憤激は首都中に広がり,学生・市民の同情ストがおこり,他の都市の労働者も抗議ストに入った(血の日曜日事件)。政府は問題を労働者の待遇改善問題と狭くとらえて対応しようとしたが,労働立法に消極的な資本家すら立憲的改革を要求するに至った。…
【ロシア社会民主労働党】より
…対立はその後,05年春にボリシェビキがロンドンで自派のみの〈第3回〉党大会開催を強行するまでに至った。 血の日曜日事件を発端に1905年のロシア革命が始まり,労働者がストライキにより革命で主導的役割を演じると,党内では当面の革命をブルジョア段階のものとするプレハーノフの二段階革命論が疑われ,革命の性格をめぐる論争が始まった。トロツキーは永続革命論(永久革命論)を唱え,レーニンは労農独裁論を打ち出した。…
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