改訂新版 世界大百科事典 「血の日曜日事件」の意味・わかりやすい解説
血の日曜日事件 (ちのにちようびじけん)
Krovavoe voskresen'e
1905年1月22日(ロシア暦では9日)ロシアの首都ペテルブルグで起こった,労働者たちへの発砲事件。発端は司祭ガポンの組織する官製労働組合員の解雇事件であった。これに抗議するストライキが1月16日より始まり,たちまち全市に波及した。20日にはその数は382工場10万人に達した。この過程でガポンは抑圧され,無権利状態にある自分たちの窮状と要求を直接皇帝ニコライ2世に訴えるため,請願書を提出することを提案した。私たちは〈プラウダ(正義)と助けを求めて〉やってまいりました,と始まる切々たる調子の請願書には,憲法制定議会の召集,政治的自由,戦争の中止,8時間労働日などの実施を皇帝が命ずるよう,との要望が記されており,その結びには〈もしそうお命じにならなければ……あなたの宮殿の前で死にましょう〉と書かれていた。労働者たちは一人一人これに署名し,軍隊の発砲がうわさされる中で請願に行く決意を固めた。
その日は午後2時に冬宮前広場に集まることになっていた。工場街にある各支部では大群衆が冬宮めざして朝から行進を開始した。そのようすはさまざまだったが,僧衣のガポンが先頭に立つナルバ支部の行進は,皇帝の肖像,十字架,イコンなどのほか〈兵士よ,人民を撃つな〉と書いた横断幕をかかげ,賛美歌《主よ,汝の僕(しもべ)を救い給え》を歌って進んだ。参加者の総数は10万人近かった。もとよりこれはツァーリ政府の許すはずのない行動であった。市内の要所要所には軍隊が配置されており,阻止線にくると行進は騎兵に蹴散らされ,なお進もうとする隊列に一斉射撃が浴びせられた。発砲は冬宮前広場でも行われた。軍隊と民衆の衝突は10ヵ所以上で起こり,死者の数は公式発表では100人前後だが,実際は数百にのぼったともいわれる。首都は恐慌状態におちいり,翌23日からストライキは全国に拡大した。22日以後,ロシア民衆の中に伝統的であったツァーリ信仰はくずれ,ツァーリ政府の道義的正統性は失われた。こうして,この事件はロシア革命の発端となった。
→ロシア革命
執筆者:和田 あき子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報