ローレンス(読み)ろーれんす(英語表記)David Herbert Richards Lawrence

  • 1885―1930

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イギリスの作家、詩人、批評家。新しい人間関係の可能性を探り、同時に、個人としての新しい生き方やものの見方の必要を唱えた。9月11日、イングランドの中部地方の都市ノッティンガムの北西、イーストウッドの村に生まれる。そこは美しい田園と人情に囲まれ、古いイギリスの名残(なごり)をとどめた小さな村で、炭鉱と製薬工場が代表する近代産業主義が、貧しい人々の生活様式と生活感情を急激に変えつつあった。無学で純朴な坑夫の父親と、都会で女教師を勤めたインテリの母親との間には相克が絶えなかった。ローレンス自身もその相克を背負って生きねばならず、初期を代表する自伝的長編『息子と恋人』(1913)には、この両親の問題が一つの軸となっている。
 1908年から13年にかけては、ローレンスの青春の終わりと新しい人生の展開を示すできごとが起こっている。ノッティンガムの、当時のユニバーシティ・カレッジ師範部で2年を過ごし、ロンドン南郊クロイドンの小学校教師となる。長編『白孔雀(くじゃく)』(1911)、『罪びと』(1912)の出版によりロンドンの文壇に登場。ジェシー・チェインバーズをはじめとする恋人たちとの決別。母の死。そして、ドイツ生まれで、すでに一男二女の母フリーダ・ウィークリーとの出会いがある。
 フリーダとの生活は、当初からドーバー海峡を渡りアルプスを越えて北イタリアに行くなど、その後の生涯を通じて放浪生活に終始した。第一次世界大戦中は、イギリス南部を転々として暮らす。1915年を中心に、ローレンスは多数の自由主義的知識人や芸術家と触れ合い、そのなかから独自の思想をみいだしていった。『虹(にじ)』(1915)や『恋する女たち』(1920)の大作を書いたのはこの時期である。没落の予感におびえる西欧社会にとって一つの可能性とみえたアメリカへの思いが募り、のちに『アメリカ古典文学研究』(1923)に結実する評論を書き始めたのもこのころである。
 第一次世界大戦後は、1919年秋からフリーダとともにまた海外放浪の旅に出て、その後は一時的帰国のほかは、ついにイギリス本国の生活に戻らなかった。21年、地中海からインド洋に、さらにオーストラリアからアメリカに渡り、以後、おもにニュー・メキシコで暮らす。放浪経験を素材として、『迷える乙女』(1920)、『アロンの杖(つえ)』(1922)、『カンガルー』(1923)、『翼ある蛇』(1926)など四つの長編が書かれた。また教育論、文明論『無意識の幻想』(1922)もこの旅先で書かれた。
 1925年、ヨーロッパに帰り、おもに北イタリアに本拠を定め、古代エトルリア人の遺跡を訪ねたり、精力的に旅を続けながら、長編『チャタレイ夫人の恋人』(1928)、中編『死んだ男』(1929)、またローレンスの遺書ともいえる評論『黙示録論』(1930、死後出版)など、晩年のローレンスを代表する作品を書いた。30年3月2日、南フランス、ニースを見下ろす高原の町バンスの借家で死んだ。
 放浪生活の行く先々では多くの人々に接し、また、よく手紙をイギリスの友人たちに書き送っている。辺地での、少数の選ばれた人たちによる共同社会、「ラーナーニム」の夢は最後までローレンスの脳裏を離れなかったようである(「ラーナーニム」は『旧約聖書』「詩篇(へん)」第33編の冒頭の一句のヘブライ語からとられた名称である)。ローレンスの遺骨はバンスの共同墓地に葬られたが、のちニュー・メキシコ州サンタ・フェの北北西サン・クリストバルのカイオワ牧場にも分納され、フリーダもここに眠っている。またイーストウッドの南、ニュー・イーストウッドの墓地には、ローレンス一族の墓が建てられ、デイビッド・ハーバートの名もここに刻まれている。[羽矢謙一]
『小川和夫訳『無意識の幻想』(1966・南雲堂) ▽羽矢謙一訳『愛と生の倫理』(1974・南雲堂) ▽西村孝次編『ロレンス』(『20世紀英米文学案内6』1971・研究社出版) ▽羽矢謙一著『D・H・ロレンスの世界』(1978・評論社) ▽伊藤整他訳『ロレンス選集』全八巻(1950・小山書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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