日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワイル」の意味・わかりやすい解説
ワイル(Hermann Weyl)
わいる
Hermann Weyl
(1885―1955)
ドイツ生まれの数学者。19歳のときゲッティンゲン大学へ入学。一時ミュンヘン大学で聴講したこともあるが、23歳のとき積分方程式の研究によってゲッティンゲン大学より学位を得、1910年同大学私講師、1913年、28歳でチューリヒ工科大学教授。1926年から1927年にかけてゲッティンゲン大学客員教授、1928~1929年アメリカのプリンストン大学客員教授を務めたのち、1930年ゲッティンゲン大学教授となる。しかし1933年、アメリカにプリンストン高等研究所が創立されたとき招かれてその教授となる。1951年に研究所を辞してスイスへ帰った。1955年チューリヒで死去。
ワイルの仕事は、数学基礎論、群論、微分幾何学などの純粋数学の分野から、哲学、物理学、とくに統一場理論と量子力学の分野まで、非常に広い範囲にわたっている。
とくに微分幾何学の分野へ擬似接続の考え方を導入し、いわゆる統一場理論、すなわち重力場と電磁場を統一した形で論じうるような理論をつくるために、計量テンソルの共変微分が計量テンソルそれ自身に比例するような構造をもった空間を考えた。いわゆるゲージ変換はこのなかに初めて現れた。この種の空間はワイル空間とよばれている。
[矢野健太郎]
ワイル(Kurt Weill)
わいる
Kurt Weill
(1900―1950)
ドイツ生まれのアメリカの作曲家。3月2日、ユダヤ教会カントルの息子としてデッサウに生まれる。ベルリン芸術アカデミーでブゾーニに学ぶ。二曲の交響曲、一曲のバイオリン協奏曲、一曲のチェロ・ソナタのほかはほとんど器楽曲には手を染めず、自ら語るように、その一生を「時代の演劇とより高度な音楽形式を結び付ける」ことに捧(ささ)げた。初めは『立役者』(1926)、『皇帝は写真をとらせる』(1928)でゲオルク・カイザーと組んだが、ブレヒトとの仕事『三文オペラ』(1928)、『マハゴニー市の興亡』(1930)などにより、その名声を決定づけた。とくに『三文オペラ』は「メッキ・メッサー」のメロディとともに世界的に大ヒットしたが、ナチス台頭により1933年に亡命、パリに滞在したのち、35年からアメリカに定住、43年には帰化した。ブロードウェーの作曲家として「セプテンバー・ソング」を含む『ニッカーボッカー・ホリデー』(1938)をはじめ、『レディ・イン・ザ・ダーク』(1941)、『ラブ・ライフ』(1948)などを発表したが、50年4月3日ニューヨークに没した。
[細川周平]
『ワイル・G・グナー著、岩淵達治訳『ヴァイルとブレヒト――時代を映す音楽劇』(1986・音楽之友社)』