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ブレヒト Brecht, Arnold

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ブレヒト
Brecht, Arnold

[生]1884.1.26. リューベック
[没]1977.9.11. シュレースウィヒホルシュタイン,オイティーン
アメリカの政治学者。ドイツに生れ,ワイマール共和国で官界の要職にあったが,ナチに追われて 1933年,アメリカに亡命。ハーバード,エールなどの諸大学で教壇に立ち,アメリカ政治学会副会長となった。主著『政治理論』 Political Theory (1959) 。

ブレヒト
Brecht, Bertolt

[生]1898.2.10. アウクスブルク
[没]1956.8.14. 東ベルリン
ドイツの劇作家,詩人。富裕な製紙工場主の家に生れたが,第1次世界大戦末期に召集され,反戦思想に目ざめた。ミュンヘン大学では医学を専攻したが,学業を放棄して演劇活動に入り,『夜打つ太鼓』 Trommeln in der Nacht (1922) ,『バール』 Baal (23) の成功によって演出家 M.ラインハルトらに認められる。作曲家 K.ワイルとの共同作品『三文オペラ』 Die Dreigroschenoper (28) では,観客の情緒ではなく認識に訴えるために多数の劇中歌を導入。以後,観客の感情移入を排した叙事演劇の手法を深化させる一方,資本主義に対する批判を強め,1930年共産党に入党,多くの教育劇を書いた。 33年ナチス政権樹立後は国を離れ,41年アメリカに亡命。その間,『肝っ玉おっ母とその子供たち』 Mutter Courage und ihre Kinder (39) ,『ガリレオ・ガリレイの生涯』 Das Leben des Galilei (43) ,『セチュアンの善人』 Der gute Mensch von Sezuan (43) ,『プンティラ旦那と下男マッティ』 Herr Puntila und sein Knecht Matti (48) ,『コーカサスの白墨の輪』 Der Kaukasische Kreidekreis (48) などを書いた。 49年東ベルリンに帰国。妻の H.ワイゲルとともにベルリーナー・アンサンブルを結成,シッフバウアーダム劇場を本拠として活動した。主著『演劇のための小原理』 Kleines Organon für das Theater (49) などにおいて異化効果提唱し,その理論は現代の多くの劇作家に影響を与えた。

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百科事典マイペディアの解説

ブレヒト

ドイツの劇作家,詩人。処女戯曲《バール》(1918年)は放埒な自然児を主人公としたが,早くから表現主義とは距離をとった。1928年《三文オペラ》で地歩を確立した。
→関連項目アイスラー朝倉摂岩淵達治ゲイ高行健コルシュ千田是也俳優座ベルリンベンヤミンミュラーラングリュビーモフレンツロージーワイル

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世界大百科事典 第2版の解説

ブレヒト【Bertolt Brecht】

1898‐1956
ドイツの劇作家。20世紀を代表する演劇家の一人。アウクスブルクで工場支配人の息子として生まれ,早くから市民社会に反発し,高校時代から創作を始めた。当時流行した表現主義には批判的で,放埒(ほうらつ)な自然児を主人公にした処女戯曲《バールBaal》(1918)はゆたかなビジョンと冷静な距離化の両面を示している。ミュンヘン大学に入学するとすぐ召集を受け,衛生兵として第1次大戦を経験したが,復員後スパルタクス団の蜂起から脱落する帰還兵を描いた劇《夜打つ太鼓Trommeln in der Nacht》の初演(1922)で注目されクライスト賞を受賞,ミュンヘン室内劇場の文芸部に迎えられた。

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大辞林 第三版の解説

ブレヒト【Bertolt Brecht】

1898~1956) ドイツの劇作家・詩人。マルクス主義的立場に立ち、理論の十全な実作化を試み、生彩ある現代演劇を書いた。戯曲「夜打つ太鼓」「三文オペラ」「肝っ玉おっかあとその子供たち」「コーカサスの白墨の輪」、詩集「家庭説教集」、評論集「演劇のための小思考原理」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ブレヒト
ぶれひと
Bert(olt) Brecht
(1898―1956)

ドイツの劇作家、演出家。本名はオイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト。[八木 浩]

生涯

2月10日、アウクスブルクの工場支配人の子として生まれる。ミュンヘン大学の医学生であったが劇場の仕事に転じ、1922年『夜鳴る太鼓』でクライスト賞を受けた。24年ベルリンへ移り、演出家マックス・ラインハルトのもとで活躍、そのころからマルクスを学ぶ。28年には女優ヘレーネ・ワイゲルと結婚、同年初演の『三文オペラ』で大成功を収めた。30年からは『試み』と題して続々作品を出版、音楽家ハンス・アイスラーと協力、映画『クーレ・ワンペ』をつくる。33年、オーストリア、スイスなどを経てデンマークに亡命。35年にはパリの国際作家会議に出席して反ナチスの活動を推進、36年からモスクワでドイツ亡命作家の機関誌『ことば』をフォイヒトワンガーやビリー・ブレーデルと協力して発行。41年アメリカに亡命したが、第二次世界大戦後の47年、非米活動審査委員会の審問を受け、かろうじてヨーロッパへ脱出。スイスを経て48年東ドイツに戻り、翌49年には妻のヘレーネ・ワイゲルとドイツ民主共和国の首都ベルリンで劇団「ベルリーナー・アンサンブル」を設立。52年、ブレヒトの全著作に対して国民賞、54年にはレーニン平和賞が贈られた。56年8月14日、多くの仕事を残してベルリンで死去。[八木 浩]

作品

ブレヒトは若いときから表現主義に近づき、かつ表現主義を超えた、観念や理想や道徳と妥協しない攻撃的にしてシニカルな詩を書くと同時に、自ら作曲し、演奏して歌った。歌(ソング)を核にした初期の演劇作品に『バール』(1923)や『夜鳴る太鼓』などがある。『都会のジャングル』(1923)、『男は男』(1927)は大都市や戦争を扱ってその本質を提示している。しかし決定的に重要なのは『マハゴニー市の興亡』(1929、初演1930)と『三文オペラ』の2作品である。両者はクルト・ワイルの作曲によって成功を収めた音楽劇であるが、それとともにブレヒトの叙事詩的演劇の出発点としてきわめて意義深い。感情移入に中心を置いた「演劇の戯曲的形式」に「演劇の叙事詩的形式」を対置するブレヒトの試みが、これらの作品に付記された「注」によってうかがうことができる。そののち彼は、創作活動のかたわら演劇理論についても積極的に発言する。『娯楽演劇か教育演劇か』(1935)、『実験的劇場について』(1939)、そのほか『街頭の場面』などの多くの戦中の遺稿を収めた『真鍮(しんちゅう)買い』(1937~51)、戦後のまとまった理論書『演劇のための小思考原理』(1949)、『劇場での弁証法』(1953以降)などがある。ブレヒトは非アリストテレス的な叙事詩的演劇の理論に、観客が批判的にみて環境を変えようと努める「異化効果」の理論を加えた。
 中期のブレヒトには『例外と原則』(1930)、『イエスマンとノーマン』(1932)、『処置』(1932)をはじめとするいわゆる教育劇があり、革命運動を超えて、変革されていく未来における新しい演劇を展望した。そこではすべての人が演じつつ学ぶのである。やがて歴史が逆行する厳しい世界情勢のなかで、『母』(1931)が完成する。ファシズムとの闘いのなかで、『とんがり頭とまる頭』(1933、初演1936)、『カラールのおかみさんの銃』(1937)、『第三帝国の恐怖と貧困』(1937、初演1938)が、状況と目的に応じ、あるときは寓話(ぐうわ)風に、あるときはアリストテレス的手法で、あるいはモンタージュ方式で創作された。亡命生活が長引くにつれて、作品は内面的にも深みのあるまとまりを示し、パラーベル(寓話)と歴史劇の両軸が目だってくる。『肝っ玉おっ母(かあ)とその子供たち』(1939、初演1941)、『セチュアンの善人』(1940、初演1943)、『プンティラ旦那(だんな)と下僕マッティ』(1941)、『抑えれば止まるアルトゥロ・ウイの興隆』(1941)、『ガリレイの生涯』(1943)などがそれである。アメリカ亡命中に『第二次大戦中のシュベイク』(1943)、『コーカサスの白墨の輪』(1945、初演1948)。その後『コミューンの日々』(1948)、『トゥランドット姫あるいは潔白証明者会議』(1954)、改作劇『アンティーゴネ』(1948)、『家庭教師』(1949)、『コリオラン』(1953)のほか、多くの一幕物や断片の遺稿も注目されている。
 劇作に劣らず詩作も多く、初期詩集『家庭用説教集』(1926)、亡命期の『スウェンボルク詩集』(1939)など、彼の生涯の大きな精神的支柱をなしている。多くのユニークな小散文『コイナーさんの話』(1930~50)、『メー・ティ』(1966)、『亡命者の対話』(1961)、長編『三文小説』(1934)、『シーザーの商売』などは、この叙事詩的演劇家にとっての実験でもあった。[八木 浩]
『千田是也編『ブレヒト戯曲選集』全5巻(1961~62・白水社) ▽千田是也他訳編『ブレヒト演劇論集』全2巻(1973、74・白水社) ▽野村修他訳『ベルトルト・ブレヒトの仕事』全6巻(1972~73・河出書房新社) ▽岩淵達治他訳『ブレヒト作業日誌』全4巻(1976~77・河出書房新社) ▽E・シューマッハー著、岩淵達治訳『ブレヒト・生涯と作品』(1981・テアトロ)』

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世界大百科事典内のブレヒトの言及

【異化】より

…生物学(〈同化作用〉の項目を参照),心理学でもこう呼ばれる現象があるが,ここでは文芸的な術語だけを扱う。本来はブレヒトが演劇で用いた〈異化効果Verfremdungseffekt〉に由来する。英語でalienation,フランス語でdistanciation,中国語では間離化,陌生化とも訳されているが,語義からいえば作品の対象をきわだたせ,異様(常)にみせる手続をいう。…

【演技】より

…日常生活ではわれわれは思うままに,自分の体験だけでものを想像するが,俳優は戯曲の与えている条件のなかで,戯曲の要求しているものを,実生活におけると同様の鮮明さをもって,自分の想像力で完全に目の前に思い浮かべることができなければならない。
[スタニスラフスキー,ブレヒト]
 このような演技の創造に関する方法論を,スタニスラフスキーはリアリズム演劇確立のために,その生涯にわたって追求した。〈俳優の創造とは,役を生きることである〉として,そのような演技のあり方を彼は〈体験の芸術〉と規定し,演技の基礎となる俳優修業の方法と役のつくり方を中心的課題として,〈スタニスラフスキー・システム〉と呼ばれる方法を実践し,発展させた。…

【演劇】より

…それを〈同化〉と〈異化〉という概念で表すなら,まず観客の内部には,〈見ているものが限りなく現実に近く,現実そのものであれ〉という虚構と現実の同一視の欲望と,〈見ているものに完全に同化したい〉という欲望があり,前者はすでに触れた古代ローマの闘技士や公開の処刑,現代ならポルノ・ショーなどに見受けられ,後者は〈共同体の構成員が祝祭の狂喜乱舞のうちに一体感を味わう〉という演劇の始原的形態の幻想に通じる。と同時に,通常は,このような同化はあくまでも演劇という約束事の内部のことだと自覚されていて,それを異化して見る視点をどこかに保つものであり,それが意識的・知的な作業となればB.ブレヒトの説く〈異化〉作用であるが,多くの場合は,ちょうど夢の中にあって,自分が行為者であると同時に観客でもあり,かつしばしばそれが夢であることを知りつつ夢を見ているという,あの人格の二重化に似た同化と異化の使い分けをしているのである。フロイトが無意識の表象(ルプレザンタシオン)と演劇の上演(ルプレザンタシオン)に深い類縁関係を読んだのはその意味では正しかった。…

【演出】より

… 20世紀に入るとドイツのM.ラインハルトは豊かな想像力と構成力によって絢爛,雄大な演出力を示したが,すぐれた俳優指導者でもあった。ドイツではさらに叙事演劇の先駆者E.ピスカートルが政治的直接行動をめざすプロレタリア劇場を創設(1920)したが,彼の協力者であるB.ブレヒトによって,ひきつづき叙事演劇による異化効果が探究された。ブレヒトは舞台に真実らしい幻想をつくりだすことを拒否し,観客を劇の世界に同化させないよう,その意識をたえず現実に引き戻す工夫をした。…

【教育劇】より

ブレヒトが1930年前後に試みた一連の自作の戯曲につけた名称。観客を教育する劇という意味はない。…

【叙事演劇】より

…なお,これを〈叙事詩(的)演劇〉と訳す場合もあり,言葉だけからいえばそのような訳も可能ではあるが,〈叙事詩〉の語が強く古典的な文学上の概念そのものを想起させるので,以下に述べるようなこの演劇理念の本意を考えるならば,〈叙事詩(的)演劇〉の訳語はふさわしいとはいえまい。 Episches Theaterという言葉は,1920年代に従来の感情移入に基づいた〈劇的〉な演劇では扱いきれぬ政治的な主題を扱うために,E.ピスカートルの叙事的要素への注目に刺激されたB.ブレヒトが,自己の演劇を特徴づけるために意識的に用いるようになったものである。〈非アリストテレス的演劇〉という言い方も使われるが,これは別に具体的にアリストテレスの演劇論に反対するというのではなく,アリストテレスを淵源とする総体としての伝統的・従来的ヨーロッパ演劇をさして,それを否定するという意味合いのものであった。…

【ドイツ演劇】より

…しかし20年代後半には表現主義は退潮し,新即物主義の時代になると,事実や記録を重視する時事的な演劇が盛んになった。新しいリアリズムの復活の機運を作ったのはC.ツックマイヤー,F.ブルックナー,F.ウォルフなどであるが,B.ブレヒトは叙事演劇という新しい方向を模索した。しかし異化の手法を用いて世界の変革を認識させる新しい彼の演劇体系が完全に発展するのは,亡命以後のことであった。…

【ドイツ文学】より

…これらの叙事詩の基礎にある倫理は,行動に節度を保ち,調和のある生き方をすすめるものであったが,宮廷社会が混乱し,その倫理が空洞化するにつれて,長編の叙事詩形式は維持されなくなっていく。ウェルンヘル・デル・ガルテネーレの《ヘルムブレヒト》のように,身分社会の混乱をそのまま映し出す短い形式への移行が生じたし,またそこに滑稽譚という領域を開拓して風刺文学の草分けとなったのが,シュトリッカーである。
[抒情詩のモティーフ]
 抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。…

【俳優】より

…また,イギリスのE.H.G.クレーグやスイス生れのA.アッピア,ドイツのM.ラインハルトらがそれぞれに唱えた演技論・俳優論は重要であるし,フランスではJ.コポーを筆頭にC.デュランやL.ジュベらによって詩的演技が提唱・実践された。さらには,A.アルトーによる残酷演劇,またB.ブレヒトによる革新的な演劇論・演技論が新しい地平を切り拓いている。なかでも最後の2人,すなわちアルトーとブレヒトの問題提起は,現在から未来に向けての展望を得ようとする際,ことのほか重要なものであると言ってよい。…

【反ファシズム】より

… そして翌35年,これらフランス知識人はファシズムに対する文化の擁護を訴え,6月パリに24ヵ国230名の文学者を集め,第1回〈文化擁護国際作家会議〉を開催する。外国からの参加者には,ハインリッヒ・マン,ブレヒト,ムージル,ゼーガース,ハクスリー,バーベリ,エレンブルグらがいた。〈作家会議〉は,翌年ロンドンで書記局総会,37年7月内戦下のマドリードとパリで第2回大会を開催し,さらにネルーダ,スペンダー,オーデンらの参加をみた。…

【舞台美術】より

…アメリカの舞台美術家ミールジナーJo Mielziner(1901‐76)は,紗幕による透明な装置でT.ウィリアムズの《ガラスの動物園》《欲望という名の電車》などの舞台をつくり,詩的な雰囲気をみなぎらせた。 ドイツの劇作家,演出家B.ブレヒトの作品は一般に,〈叙事演劇〉といわれているが,舞台表現も独自のものをつくり上げている。ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。…

【ベルリーナー・アンサンブル】より

…ベルリンにあるドイツ民主共和国の国立劇場(劇団)。1949年1月,亡命から帰国したB.ブレヒトは,ドイツ座で妻H.ワイゲル主演の《肝っ玉おっ母とその子供たち》を上演し,その成功をふまえてこの新劇団を結成,同じ年の11月にドイツ座を借りて,《プンティラ旦那と下男のマッティ》から活動は始められた。演出家エンゲル,装置家ネーアー,俳優にブッシュ,ビルト,ゲショネック,ワイゲル,ギーゼなどを擁し,ブレヒトの作品とブレヒト流に解釈された古典,近代古典を中心にした演目によって,やがて国際的な注目を浴びるようになった。…

※「ブレヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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