ドイツの劇作家。20世紀を代表する演劇家の一人。アウクスブルクで工場支配人の息子として生まれ,早くから市民社会に反発し,高校時代から創作を始めた。当時流行した表現主義には批判的で,放埒(ほうらつ)な自然児を主人公にした処女戯曲《バールBaal》(1918)はゆたかなビジョンと冷静な距離化の両面を示している。ミュンヘン大学に入学するとすぐ召集を受け,衛生兵として第1次大戦を経験したが,復員後スパルタクス団の蜂起から脱落する帰還兵を描いた劇《夜打つ太鼓Trommeln in der Nacht》の初演(1922)で注目されクライスト賞を受賞,ミュンヘン室内劇場の文芸部に迎えられた。だが既成演劇に挑戦するためにやがて宿願のベルリン進出を果たし,ドイツ座の文芸部員となった。《都会のジャングル》(1923初演),《男は男だ》(1926初演)によって新進劇作家の地位を確保した彼は,感情移入に基づく演劇の否定をしだいに体系化していく。なお,1926年には,初期の抒情詩の集大成である《家庭用説教集》も出しているが,このころから,社会機構の理解のために始めたマルクス主義の学習が,初期のアナーキーな立場を捨てさせることになる。
28年の《三文オペラ》の画期的な成功は,オペラの革新と劇における音楽の拮抗的な役割を考えさせることになるが,そういう関心と社会的な主題が結びついたのが一連の教育劇の試みであり,E.ピスカートルの政治演劇からも多くの刺激を得て,新しい世界像を獲得するための〈叙事演劇〉の構想を明確化していく。《三文オペラ》と同じくK.ワイルの作曲によって上演されたオペラ《マハゴニー市の興亡》(1929)の注にまずこの理論の輪郭が示される。ナチス登場の前夜には,教育劇《処置》やM.ゴーリキーの同名の小説を劇化した《母(おふくろ)》(1930ころ),《屠殺場の聖ヨハンナ》(1929-31)のような政治的主題をテーマとした新形式の作品が書かれたが,いずれも観客自身に,提起された問題を考察し認識に達する過程を委ねているのが特色である。
33年2月27日の国会放火事件の翌日亡命したブレヒトは,同年暮にデンマークに落ち着くまでの間にも,バレエ劇《七つの大罪》や寓意劇《まる頭ととんがり頭》を執筆した。そこでは異化という手法が有効な手段として追求されるようになる。亡命の地,デンマークのスベンボルでのW.ベンヤミン,K.コルシュらとの交流はよく知られているが,そこで彼は反ファシズム運動の活動を続け,《第三帝国の恐怖と貧困》や《カラールおばさんの鉄砲》を書いた。代表作の《肝っ玉おっ母とその子供たちMutter Courage und ihre Kinder》(1939。1941初演)や《ガリレイの生涯Leben des Galilei》(1938。1947改稿初演),《セチュアンの善人Der gute Mensch von Sezuan》(1940。1943初演)もこのころ執筆あるいは執筆が始められている。ナチスの侵略を避けたブレヒトは39年スウェーデンに,40年にフィンランドに逃れたが,その間にも戯曲《プンティラ旦那と下男のマッティ》を完成している。41年にようやくビザがとれ,シベリア経由でアメリカに亡命した。寓意劇《アルトゥロ・ウイ》や《コーカサスの白墨の輪Der kaukasische Kreidekreis》(1944。1954初演)はここで執筆されているが,上演の機会もないままに《真鍮買い》などに新しい演劇論をまとめていった。
第2次大戦後は赤狩りの風潮の起こり始めた47年,非米活動委員会に喚問され,その直後スイスに渡り,48年,東ベルリンからの求めに応じて帰国した。翌49年には妻H.ワイゲルの主演で《肝っ玉おっ母とその子供たち》を上演して注目をあび,同じ年劇団〈ベルリーナー・アンサンブル〉を結成した。54年には常打小屋も与えられ,理論を実践に移し,全世界の注目を浴びるようになったが,56年に心筋梗塞で急死した。
ブレヒトの演劇の新しさは,とかくその形式面だけに目がむけられるきらいがあったが,本来はリアリズムの可能性を拡大したものであり,晩年のブレヒトは,自分の演劇を〈弁証法の演劇〉と規定していた。なお戯曲,詩集のほかに,小説《三文小説》《暦物語》《カエサル氏の商売》や《作業日誌》などがある。
→異化 →叙事演劇
すでに昭和初期の表現主義紹介期に《夜打つ太鼓》が翻訳され,1932年(昭和7)には《三文オペラ》の翻案《乞食芝居》が東京演劇集団によって上演されたが,ナチスによる禁止以後は,日本でもその存在が忘れられた。
第2次大戦後ブレヒトの活動が再び国際的な注目を浴びだした50年代から,千田是也が精力的に導入を試み,53年の《第三帝国の恐怖と貧困》の上演以後,俳優座や若手劇団による上演が活発化し,合同公演《ガリレイの生涯》(1958)で異化効果や叙事演劇の問題が論じられるようになった。ブレヒトを単純な啓蒙政治劇とみた保守派や,リアリズムを逸脱するとみた教条的進歩派の誤解はあったが,その方法論は,安部公房,宮本研,福田善之などの劇作にも影響を与えだした。60年代の政治的な季節には,既成の硬直化した演劇の反措定として,教育劇も含めた方法の政治的な有効性がクローズ・アップされた。しかし70年代になって非政治化,内面化の傾向が強まり,演劇における情緒の復権が強まると,ブレヒトへの関心は急速に衰えた。
ドイツでも,ブレヒトの古典化,〈ブレヒト疲れ〉とでもいうべき現象はあるが,それは異化が常識的な手法に定着したあとで起こったことであるのに対して,日本のブレヒト離れは,ブレヒトを美学的な形式実験もしくは政治啓蒙劇と一面的にみてしまうような誤解を残したままで起こったきらいがある。そこではブレヒト演劇の一見,形式的な実験が,実は矛盾の発見という最も現実的な問題のために行われたという点が看過されていた。80年代にもブレヒトの上演は地道に行われているが,その状況のなかで,かえってブレヒトの知的で弁証法的なリアリズムが定着する可能性もある。ブレヒトの受容とは本来ブレヒトを超えることであるが,日本ではまだ超克を問題にする段階には達していない。
執筆者:岩淵 達治
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ドイツの劇作家、演出家。本名はオイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト。
[八木 浩]
2月10日、アウクスブルクの工場支配人の子として生まれる。ミュンヘン大学の医学生であったが劇場の仕事に転じ、1922年『夜鳴る太鼓』でクライスト賞を受けた。24年ベルリンへ移り、演出家マックス・ラインハルトのもとで活躍、そのころからマルクスを学ぶ。28年には女優ヘレーネ・ワイゲルと結婚、同年初演の『三文オペラ』で大成功を収めた。30年からは『試み』と題して続々作品を出版、音楽家ハンス・アイスラーと協力、映画『クーレ・ワンペ』をつくる。33年、オーストリア、スイスなどを経てデンマークに亡命。35年にはパリの国際作家会議に出席して反ナチスの活動を推進、36年からモスクワでドイツ亡命作家の機関誌『ことば』をフォイヒトワンガーやビリー・ブレーデルと協力して発行。41年アメリカに亡命したが、第二次世界大戦後の47年、非米活動審査委員会の審問を受け、かろうじてヨーロッパへ脱出。スイスを経て48年東ドイツに戻り、翌49年には妻のヘレーネ・ワイゲルとドイツ民主共和国の首都ベルリンで劇団「ベルリーナー・アンサンブル」を設立。52年、ブレヒトの全著作に対して国民賞、54年にはレーニン平和賞が贈られた。56年8月14日、多くの仕事を残してベルリンで死去。
[八木 浩]
ブレヒトは若いときから表現主義に近づき、かつ表現主義を超えた、観念や理想や道徳と妥協しない攻撃的にしてシニカルな詩を書くと同時に、自ら作曲し、演奏して歌った。歌(ソング)を核にした初期の演劇作品に『バール』(1923)や『夜鳴る太鼓』などがある。『都会のジャングル』(1923)、『男は男』(1927)は大都市や戦争を扱ってその本質を提示している。しかし決定的に重要なのは『マハゴニー市の興亡』(1929、初演1930)と『三文オペラ』の2作品である。両者はクルト・ワイルの作曲によって成功を収めた音楽劇であるが、それとともにブレヒトの叙事詩的演劇の出発点としてきわめて意義深い。感情移入に中心を置いた「演劇の戯曲的形式」に「演劇の叙事詩的形式」を対置するブレヒトの試みが、これらの作品に付記された「注」によってうかがうことができる。そののち彼は、創作活動のかたわら演劇理論についても積極的に発言する。『娯楽演劇か教育演劇か』(1935)、『実験的劇場について』(1939)、そのほか『街頭の場面』などの多くの戦中の遺稿を収めた『真鍮(しんちゅう)買い』(1937~51)、戦後のまとまった理論書『演劇のための小思考原理』(1949)、『劇場での弁証法』(1953以降)などがある。ブレヒトは非アリストテレス的な叙事詩的演劇の理論に、観客が批判的にみて環境を変えようと努める「異化効果」の理論を加えた。
中期のブレヒトには『例外と原則』(1930)、『イエスマンとノーマン』(1932)、『処置』(1932)をはじめとするいわゆる教育劇があり、革命運動を超えて、変革されていく未来における新しい演劇を展望した。そこではすべての人が演じつつ学ぶのである。やがて歴史が逆行する厳しい世界情勢のなかで、『母』(1931)が完成する。ファシズムとの闘いのなかで、『とんがり頭とまる頭』(1933、初演1936)、『カラールのおかみさんの銃』(1937)、『第三帝国の恐怖と貧困』(1937、初演1938)が、状況と目的に応じ、あるときは寓話(ぐうわ)風に、あるときはアリストテレス的手法で、あるいはモンタージュ方式で創作された。亡命生活が長引くにつれて、作品は内面的にも深みのあるまとまりを示し、パラーベル(寓話)と歴史劇の両軸が目だってくる。『肝っ玉おっ母(かあ)とその子供たち』(1939、初演1941)、『セチュアンの善人』(1940、初演1943)、『プンティラ旦那(だんな)と下僕マッティ』(1941)、『抑えれば止まるアルトゥロ・ウイの興隆』(1941)、『ガリレイの生涯』(1943)などがそれである。アメリカ亡命中に『第二次大戦中のシュベイク』(1943)、『コーカサスの白墨の輪』(1945、初演1948)。その後『コミューンの日々』(1948)、『トゥランドット姫あるいは潔白証明者会議』(1954)、改作劇『アンティーゴネ』(1948)、『家庭教師』(1949)、『コリオラン』(1953)のほか、多くの一幕物や断片の遺稿も注目されている。
劇作に劣らず詩作も多く、初期詩集『家庭用説教集』(1926)、亡命期の『スウェンボルク詩集』(1939)など、彼の生涯の大きな精神的支柱をなしている。多くのユニークな小散文『コイナーさんの話』(1930~50)、『メー・ティ』(1966)、『亡命者の対話』(1961)、長編『三文小説』(1934)、『シーザーの商売』などは、この叙事詩的演劇家にとっての実験でもあった。
[八木 浩]
『千田是也編『ブレヒト戯曲選集』全5巻(1961~62・白水社)』▽『千田是也他訳編『ブレヒト演劇論集』全2巻(1973、74・白水社)』▽『野村修他訳『ベルトルト・ブレヒトの仕事』全6巻(1972~73・河出書房新社)』▽『岩淵達治他訳『ブレヒト作業日誌』全4巻(1976~77・河出書房新社)』▽『E・シューマッハー著、岩淵達治訳『ブレヒト・生涯と作品』(1981・テアトロ)』
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1898~1956
ドイツの詩人,劇作家。『三文オペラ』(1928年)で全世界の注目を浴び,1933年以後亡命生活のなかで『第三帝国の恐怖と悲惨』(38年)など反ファシズムの傑作を書いた。第二次世界大戦後,東ドイツで劇団の育成に努めた。
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…生物学(〈同化作用〉の項目を参照),心理学でもこう呼ばれる現象があるが,ここでは文芸的な術語だけを扱う。本来はブレヒトが演劇で用いた〈異化効果Verfremdungseffekt〉に由来する。英語でalienation,フランス語でdistanciation,中国語では間離化,陌生化とも訳されているが,語義からいえば作品の対象をきわだたせ,異様(常)にみせる手続をいう。…
…日常生活ではわれわれは思うままに,自分の体験だけでものを想像するが,俳優は戯曲の与えている条件のなかで,戯曲の要求しているものを,実生活におけると同様の鮮明さをもって,自分の想像力で完全に目の前に思い浮かべることができなければならない。
[スタニスラフスキー,ブレヒト]
このような演技の創造に関する方法論を,スタニスラフスキーはリアリズム演劇確立のために,その生涯にわたって追求した。〈俳優の創造とは,役を生きることである〉として,そのような演技のあり方を彼は〈体験の芸術〉と規定し,演技の基礎となる俳優修業の方法と役のつくり方を中心的課題として,〈スタニスラフスキー・システム〉と呼ばれる方法を実践し,発展させた。…
…それを〈同化〉と〈異化〉という概念で表すなら,まず観客の内部には,〈見ているものが限りなく現実に近く,現実そのものであれ〉という虚構と現実の同一視の欲望と,〈見ているものに完全に同化したい〉という欲望があり,前者はすでに触れた古代ローマの闘技士や公開の処刑,現代ならポルノ・ショーなどに見受けられ,後者は〈共同体の構成員が祝祭の狂喜乱舞のうちに一体感を味わう〉という演劇の始原的形態の幻想に通じる。と同時に,通常は,このような同化はあくまでも演劇という約束事の内部のことだと自覚されていて,それを異化して見る視点をどこかに保つものであり,それが意識的・知的な作業となればB.ブレヒトの説く〈異化〉作用であるが,多くの場合は,ちょうど夢の中にあって,自分が行為者であると同時に観客でもあり,かつしばしばそれが夢であることを知りつつ夢を見ているという,あの人格の二重化に似た同化と異化の使い分けをしているのである。フロイトが無意識の表象(ルプレザンタシオン)と演劇の上演(ルプレザンタシオン)に深い類縁関係を読んだのはその意味では正しかった。…
… 20世紀に入るとドイツのM.ラインハルトは豊かな想像力と構成力によって絢爛,雄大な演出力を示したが,すぐれた俳優指導者でもあった。ドイツではさらに叙事演劇の先駆者E.ピスカートルが政治的直接行動をめざすプロレタリア劇場を創設(1920)したが,彼の協力者であるB.ブレヒトによって,ひきつづき叙事演劇による異化効果が探究された。ブレヒトは舞台に真実らしい幻想をつくりだすことを拒否し,観客を劇の世界に同化させないよう,その意識をたえず現実に引き戻す工夫をした。…
…ブレヒトが1930年前後に試みた一連の自作の戯曲につけた名称。観客を教育する劇という意味はない。…
…なお,これを〈叙事詩(的)演劇〉と訳す場合もあり,言葉だけからいえばそのような訳も可能ではあるが,〈叙事詩〉の語が強く古典的な文学上の概念そのものを想起させるので,以下に述べるようなこの演劇理念の本意を考えるならば,〈叙事詩(的)演劇〉の訳語はふさわしいとはいえまい。 Episches Theaterという言葉は,1920年代に従来の感情移入に基づいた〈劇的〉な演劇では扱いきれぬ政治的な主題を扱うために,E.ピスカートルの叙事的要素への注目に刺激されたB.ブレヒトが,自己の演劇を特徴づけるために意識的に用いるようになったものである。〈非アリストテレス的演劇〉という言い方も使われるが,これは別に具体的にアリストテレスの演劇論に反対するというのではなく,アリストテレスを淵源とする総体としての伝統的・従来的ヨーロッパ演劇をさして,それを否定するという意味合いのものであった。…
…しかし20年代後半には表現主義は退潮し,新即物主義の時代になると,事実や記録を重視する時事的な演劇が盛んになった。新しいリアリズムの復活の機運を作ったのはC.ツックマイヤー,F.ブルックナー,F.ウォルフなどであるが,B.ブレヒトは叙事演劇という新しい方向を模索した。しかし異化の手法を用いて世界の変革を認識させる新しい彼の演劇体系が完全に発展するのは,亡命以後のことであった。…
…これらの叙事詩の基礎にある倫理は,行動に節度を保ち,調和のある生き方をすすめるものであったが,宮廷社会が混乱し,その倫理が空洞化するにつれて,長編の叙事詩形式は維持されなくなっていく。ウェルンヘル・デル・ガルテネーレの《ヘルムブレヒト》のように,身分社会の混乱をそのまま映し出す短い形式への移行が生じたし,またそこに滑稽譚という領域を開拓して風刺文学の草分けとなったのが,シュトリッカーである。
[抒情詩のモティーフ]
抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。…
…また,イギリスのE.H.G.クレーグやスイス生れのA.アッピア,ドイツのM.ラインハルトらがそれぞれに唱えた演技論・俳優論は重要であるし,フランスではJ.コポーを筆頭にC.デュランやL.ジュベらによって詩的演技が提唱・実践された。さらには,A.アルトーによる残酷演劇,またB.ブレヒトによる革新的な演劇論・演技論が新しい地平を切り拓いている。なかでも最後の2人,すなわちアルトーとブレヒトの問題提起は,現在から未来に向けての展望を得ようとする際,ことのほか重要なものであると言ってよい。…
… そして翌35年,これらフランス知識人はファシズムに対する文化の擁護を訴え,6月パリに24ヵ国230名の文学者を集め,第1回〈文化擁護国際作家会議〉を開催する。外国からの参加者には,ハインリッヒ・マン,ブレヒト,ムージル,ゼーガース,ハクスリー,バーベリ,エレンブルグらがいた。〈作家会議〉は,翌年ロンドンで書記局総会,37年7月内戦下のマドリードとパリで第2回大会を開催し,さらにネルーダ,スペンダー,オーデンらの参加をみた。…
…アメリカの舞台美術家ミールジナーJo Mielziner(1901‐76)は,紗幕による透明な装置でT.ウィリアムズの《ガラスの動物園》《欲望という名の電車》などの舞台をつくり,詩的な雰囲気をみなぎらせた。 ドイツの劇作家,演出家B.ブレヒトの作品は一般に,〈叙事演劇〉といわれているが,舞台表現も独自のものをつくり上げている。ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。…
…ベルリンにあるドイツ民主共和国の国立劇場(劇団)。1949年1月,亡命から帰国したB.ブレヒトは,ドイツ座で妻H.ワイゲル主演の《肝っ玉おっ母とその子供たち》を上演し,その成功をふまえてこの新劇団を結成,同じ年の11月にドイツ座を借りて,《プンティラ旦那と下男のマッティ》から活動は始められた。演出家エンゲル,装置家ネーアー,俳優にブッシュ,ビルト,ゲショネック,ワイゲル,ギーゼなどを擁し,ブレヒトの作品とブレヒト流に解釈された古典,近代古典を中心にした演目によって,やがて国際的な注目を浴びるようになった。…
※「ブレヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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