翻訳|musical
ミュージカル・コメディmusical comedyの略。元来は,たわいのない喜劇的な物語をもっぱら扱っていたが,内容が深刻さを増したり,本格的な演劇性を獲得したりするにつれて,単にミュージカルと呼ばれるようになった。さらに,内容が劇的であるものについては〈ミュージカル・プレー〉〈ミュージカル・ドラマ〉,悲劇的なものについては〈ミュージカル・トラジディ〉,幻想的なものについては〈ミュージカル・ファンタジー〉,寓話的なものについては〈ミュージカル・フェーブル〉などという呼び方が生まれた。最近では,大衆芸能の味わいをもつという意味で,〈ミュージカル・ボードビル〉とか〈バーレスク・ミュージカル〉とかいった言葉もできている。しかし,これらはいずれも明確な定義をもつ呼称ではなく,個々の作品について作者や研究者によってかなり恣意的に使われているのが実情であり,語源的にはあくまでもミュージカルはミュージカル・コメディの略である。
音楽劇の一種で,普通は,語られるせりふと歌とからなり,しばしば踊りを含む。先行芸術であるオペラのレチタティーボの代りに,音楽を伴わないせりふがあるという意味で,音楽性だけでなく文学性をも重視した演劇形態であるといえる。同じく先行芸術であるオペレッタと形式的には酷似しているが,題材の点でミュージカルのほうが庶民的で現実的である。他方,イギリスではミュージック・ホール,アメリカではミンストレル・ショー,バーレスク,ボードビルなどの大衆芸能にも依存して発達したが,これらの芸能が個々の出演者の芸や個々の場面によって観客に訴えたのに対して,ミュージカルは作品全体の魅力をも重視し,一貫した物語をもつ。この違いは,初期のミュージカルと並行して発展した芸能であるレビューと比べたときにも認められる。すなわち,レビューは個々の場面の配列にくふうをこらし,全体を統一する視点や主題をもつことはあっても,一貫した物語をもつことはない。理想的なミュージカルとは,個々の歌や踊りのナンバー(曲目)がそれ自体として魅力をもつだけでなく,それを演じる人物やそれが演じられる状況と密接なつながりをもち,物語の進行に役だつようなものでなければならない。つまり,オペラにおける音楽の絶対的優位が崩れているという意味で,また,先行芸能である種々の大衆芸能に物語性が加わっているという意味で,ミュージカルとは本質においてきわめて文学的な舞台芸術なのである。意外に聞こえるかもしれないが,ミュージカルが成功するかどうかを最終的に決めるのは,音楽ではなくて台本なのである。
世界でミュージカルが最も盛んな国はアメリカであるが,それに次いで優れた伝統のある国はイギリスである。イギリスには18世紀のJ.ゲイの《乞食オペラ》をはじめとするバラッド・オペラや,19世紀のW.S.ギルバートとA.S.サリバンの一連のサボイ・オペラのように,形式的にはミュージカルと異ならないものが古くからあるが,普通は興行師G.エドワーズが製作した1892年初演の《町にて》がイギリス最初のミュージカルとされる。これは貧しい青年と有名な女優のロマンスを扱った社交界喜劇であるが,これ以後第2次大戦までのイギリスのミュージカルは,おおむねたわいのない恋愛物語を多少の喜劇性と風刺性で味つけしたものであった。この時期,イギリスのミュージカル界の活気は,むしろアメリカのものの輸入によって維持されていた。その中にあってイギリスが誇ることができる作者はN.P.カワードとノベローIvor Novello(1893-1951)の2人である。カワードは劇作家としては機知に富んだ喜劇を得意としたが,詞,曲,台本のすべてを担当した《甘辛人生》(1929),《オペレッタ》(1938),《太平洋1860年》(1946)などのミュージカルでは感傷性も表面に出している。ただし,詞は複雑な脚韻と機知豊かな話法を特徴とする。ノベローは曲と台本をみずから担当し,詞はおおむね他の作者にゆだねたが,《華麗な夜》(1935),《踊る歳月》(1939),《王のラプソディ》(1949)など,甘美でロマンティックな作品を発表し,しばしばみずから主役を演じた。この2人のミュージカルは内容が時代がかっているから,むしろオペレッタと呼ぶべきかもしれない。第2次大戦後では,1920年代のミュージカルを風刺的に模倣したウィルソンSandy Wilson(1924- )作詞・作曲・台本の《ボーイ・フレンド》(1953)や,スレードJulian Penkivil Slade(1930-2006)作詞・作曲・台本とレノルズDorothy Reynolds(1913-77)作詞・台本の《青春の日々》(1954)がヒットしたが,どちらもスケールは小さい。次いで《オリバー!》(1960)などのバートLionel Bart(1930-99)がしばらく活躍した。現在最も重要な作者は,《ジーザス・クライスト・スーパースター》(1971),《エビータ》(1976),《キャッツ》(1981),《スターライト・エクスプレス》(1984)などの曲を書いたロイド・ウェバーAndrew Lloyd Webber(1948- )である。彼はおもにロック風の曲を作るが,文学性を犠牲にしても音楽を正面に出そうとする傾向があり,革新的のようでいてかえってミュージカルを古いかたちに戻そうとしているように思われる。
ミュージカルは最もアメリカ的な舞台芸術だとされるが,ミュージカルがとくにアメリカで発達したのは,アメリカ文化全体について指摘できる伝統の欠如と庶民性のせいであると考えられる。ヨーロッパの国々と違って,オペラの伝統もせりふ劇の伝統ももたないアメリカでは,ミュージカルという折衷的な形式が何の束縛も受けることなく成長した。それはおおむねわかりやすい物語を親しみやすい音楽でつづり,ときにはスペクタクル性に富んだ装置や肉体的魅力豊かなコーラス・ガールなどの視覚的要素によっても観客に訴えようとした。当然のこととして製作に資金がかかり,ショー・ビジネスという性格をどこの国よりも顕著にもっているアメリカ演劇界でミュージカルがとくに発達したのは不思議ではない。すなわち,アメリカにおけるミュージカルの発達は,文化の庶民性と同時に,資本主義の高度の発達という経済のあり方をも反映している。今日でも,ブロードウェーの商業演劇について人々がまず思い浮かべるのは,スター・システムに基盤をおき,巨額の製作資金を投入して作られる華麗なミュージカルであるに違いない。
アメリカのミュージカルは19世紀半ばから発達し始めた。それまでにも歌や踊りを含む劇はあったが,最初のミュージカルは1866年の《ブラック・クルック》だといわれる。これは悪い魔術師を敵にした貧しい画家が妖精の女王に助けられて勝利を収め,美しい恋人と結ばれるという伝奇的な物語で,文学的価値は乏しい。その後1920年代までは,V.ハーバート,フリムルRudolph Friml,ロンバーグSigmund Rombergなど,ヨーロッパ出身の作曲家によるオペレッタ風の作品と,名目だけの筋で歌や踊りをつないだたわいのない恋愛劇や笑劇が多かった。しかし,J.カーンの曲,O.ハマースタインの詞と台本による《ショー・ボート》(1927。原作はE. ファーバーの小説)によって,現実感のあるミュージカルが誕生した。これはミシシッピ川を往来するショーボートをおもな舞台にして,一座の座長の娘と流れ者の賭博師とのロマンスを描いたものであるが,同時に,人種差別のせいで不幸になる一座の花形女優の物語をも扱い,黒人がおおぜい登場する点,また,個々のナンバーがプロットと緊密につながっている点で,画期的な作品だった。カーンにやや遅れて現れ,第2次大戦前の時期に,あるいは戦後まで,活躍したおもな作曲者は,I.バーリン,G.ガーシュウィン,K.ワイル,C.ポーター,R.ロジャーズなどである。バーリンは詞も書き,最初はおもにレビューの仕事をして無数のヒット・ソングを生んだが,射撃が巧みな娘を主人公にした野趣と生気の充満する《アニーよ銃をとれ》(1946)によって,本格的なミュージカルでも優れた業績を残した。ガーシュウィンは作詞家の兄アイラ・ガーシュウィンIra Gershwin(1896-1983)と組み,やはりレビューから出発して都会的で軽い恋愛喜劇に進み,大統領選挙を風刺したG.S.カウフマンとリスキンドMorrie Ryskindの台本による《われ汝を歌う》(1931)で文学的価値の高いミュージカルを手がけた。これはミュージカルとしては初めてピュリッツァー賞を与えられた。G.ガーシュウィンは晩年に黒人の生活をリアルに描いた《ポーギーとベス》(1935)を作ったが,全作品を通じて軽快なリズムやものうげなメロディを特徴とする歌を書いた。ワイルはドイツ生れで,ブレヒトと組んで《三文オペラ》などを作っていたが,ナチスを逃れて渡米し,精神分析を素材にした《闇の中の女》(1941)など,それまでのミュージカルがとり上げなかった辛口の物語を扱う作品を残した。多くのミュージカル作者と違ってワイルは作曲法を本格的に学んでおり,アメリカのミュージカルの知的水準を高めることに著しく貢献した。ポーターは複雑な脚韻と都会的な機知を特徴とする詞も書き,ラテン風の曲や軽快で滑稽な曲を伴った歌によって,ミュージカル作者としては最も洗練された人物とみなされる。大西洋横断中の客船を舞台にして笑劇風の騒ぎを描いた《何でも平気》(1934),シェークスピアの《じゃじゃ馬ならし》を下敷きにした《キス・ミー・ケート》(1948)などが代表作である。ロジャーズは,ポーターに似て機知と複雑な脚韻を得意とする作詞家ハートLorenz Hart(1895-1943)と組んで出発した。マーク・トウェーンの小説に基づいた《コネティカット・ヤンキー》(1927),古典バレエとショー・ダンスのからまりを描いた《爪先立って》(1936),シェークスピアの《間違いの喜劇》による《シラキュースから来た男たち》(1938),三流のナイトクラブ芸人の女出入りを突き放して描写し,初演時には激しい批判を浴びた《パル・ジョーイ》(1940)などが,ロジャーズとハートの傑作である。
しかしアメリカのミュージカルが都会的でしゃれた作品を多く生んだのは,ほぼ第2次大戦中までで,この時期に大きな変化が起こる。すなわち,ロジャーズが健康のすぐれないハートと仕事をすることをやめ,《ショー・ボート》の台本と詞を担当したハマースタインと組み,《オクラホマ!》(1943)をはじめとして《回転木馬》(1945),《南太平洋》(1949),《王様と私》(1951),《サウンド・オブ・ミュージック》(1959)などを発表したのである。これらはいずれも田舎や異国を舞台にし,滑稽さよりもまじめさによって訴える,ときには感傷的にさえなる作品であった。ロジャーズの音楽もかつての軽快さよりも抒情性や甘美さを基調とするものに変わった。一貫した物語を重視する点で,ロジャーズとハマースタインのミュージカルはこの形式の文学化には寄与したが,これによってアメリカのミュージカルが都会的機知を失ったことは否定できない。なお,この時期に代表作を発表した人には,ニューヨークの盛場を舞台にして賭博師と救世軍の女士官の恋愛を扱った《野郎どもと女たち》(1950)の作詞・作曲者レッサーFrank Loesser(1910-69),G.B.ショーの《ピグマリオン》を原作として大ヒットとなった《マイ・フェア・レディ》(1956)の台本・作詞者ラーナーAlan Jay Lerner(1918-84)と作曲者ローFrederick Loewe(1901-88)などがいる。だがこの時期にもう一つの変化が起こる。それはミュージカルにおける踊りの優位の主張である。これまでのミュージカルの演出はどちらかといえばせりふ劇もこなせる演出家が手がけることが多かったが,このころから振付師が演出する例がしだいに増えてきた。その代表的人物はJ.ロビンズであり,決定的な作品はおそらく,シェークスピアの《ロミオとジュリエット》を現代化するという彼の案によって,L.バーンスタインが曲,ソンダイムStephen Joshua Sondheim(1930- )が詞を作った《ウェスト・サイド物語》(1957)であろう。これは日常行動の多くを踊りにするという意味で,バレエに接近した作品であった。この傾向は振付師フォッシーBob Fosse(1927-87)が短い踊りの場面を並べた《ダンシン》(1978)などにたどり着く。そこにはもはや一貫した物語はない。同じことは,ヒッピーの生態を描いたロック・ミュージカル《ヘア》(1967)や,ミュージカルのオーディション風景を描いた《コーラス・ライン》(1975)のように,筋らしい筋のない作品についても指摘できる。他方,詞だけでなく曲も書くようになったソンダイムは,殺人鬼を主人公にした《スウィーニー・トッド》(1979)や点描派の画家ジョルジュ・スーラが登場する《日曜に公園でジョージと一緒に》(1984)などで,語られるせりふの少ない,オペラに近いミュージカルを試みた。現在のアメリカのミュージカルは踊りの優位,物語の喪失,オペラへの接近などの傾向に示されるように,かつて苦労して獲得した文学性を退けており,文学性と音楽性が均衡を保っていた以前のような作品は少なくなっている。こういう混迷状態から脱出できるか否かは今後の課題である。
日本のミュージカルは創作と外国(おもにアメリカ)の作品の翻訳上演とに分けられる。前者の芽は第2次大戦前の浅草オペラ(軽演劇)にも認められるが,演目がオペレッタに近く,台本の文学性が十分でないので,本格的なミュージカルとはいいがたい。また,宝塚などの少女歌劇も形式的にはミュージカルと呼べるものを上演しているが,やはり台本の文学性の点で難がある。ただし,戦後の宝塚歌劇は,女性のみの出演によるという制約はあるものの,ブロードウェー・ミュージカルを数多く紹介している。戦後の創作ミュージカルでは,帝劇で秦豊吉(はたとよきち)(1892-1956)の企画によって上演された《モルガンお雪》(1951)が最初である。その後多くの作品が発表されているが,まだ水準は低い。このことは,台本,振付,演技など,ほとんどすべての面について指摘できる。アメリカの場合と違って,創作ミュージカルからヒット・ソングが生まれた例がほとんどないことを考えてみても,これが日本文化の中で十分に定着していないことは確かである。
これに対して輸入ミュージカルは,東宝の菊田一夫による《マイ・フェア・レディ》の上演(1963)を最初とする。その後,演技の水準はかなり向上してきた。輸入ミュージカルの上演はおもに東宝と劇団四季が行っており,前者は《アニーよ銃をとれ》《サウンド・オブ・ミュージック》《キス・ミー・ケート》《屋根の上のバイオリン弾き》《王様と私》《ラ・マンチャの男》《スウィーニー・トッド》などを,後者は《ウェスト・サイド物語》《ジーザス・クライスト・スーパースター》《アプローズ》《エビータ》《コーラス・ライン》《キャッツ》などを紹介した。ことに1984年上演の《キャッツ》は空前のロング・ランに成功し,一つの社会現象となった。しかしミュージカルの輸入は,おもに新しいものに限られていること,作品の文学性への配慮が十分になされていない場合があること,観客が若者に限られがちであることなど,未解決の問題を抱えている。
執筆者:喜志 哲雄
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(扇田昭彦 演劇評論家 / 2007年)
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…ミュージカルの歴史を変えた画期的なアメリカ映画。1961年製作。…
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[アメリカのポピュラー音楽]
アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出すポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル(ミュージカル),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。…
…このような興行方式は,劇団組織が主体となって,各シーズンに数種の演目を交互に上演するレパートリー・システムとは対照的である。もともと舞台装置や舞台衣裳に膨大な経費を要し,また高額な宣伝費をかけなければ成功を期待できないミュージカルの制作者が,投資額の回収のために採用した方式であり,したがって,興行を1人のプロデューサー,あるいはその共同体であるプロダクションが主催するいわゆるプロデューサー・システムと切り離しては,ロングラン・システムの成立は考えられない。ミュージカルの長期公演記録としては,《マイ・フェア・レディ》の2717回がある。…
※「ミュージカル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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