20世紀前半に活躍した理論物理学者。特殊、一般の相対性理論など数々の理論を打ち立てて現代物理学の基礎を築き、「20世紀で最も影響力のある物理学者」と評価される。特殊相対性理論では、エネルギーと質量は等価とする原理を提唱。後の原爆開発につながったため、平和活動にも取り組んだ。光電効果の理論研究で1921年のノーベル物理学賞を受賞。1879年ドイツ生まれ、1955年死去。
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相対性理論の創始者、20世紀最大の物理学者の一人として知られている。また、その非エリート的経歴の特異さ、アカデミックな枠にとらわれず、ほとんど独力で斬新(ざんしん)な理論を建設する独創性、物理学のみならず哲学・思想界に及ぼした影響の大きさ、さらに権威や差別、とくにファシズムを憎み、人類の平和を求め続けた人間性の豊かさは、ほとんど他に例をみない。
[大野陽朗]
1879年3月14日、南ドイツのウルムにユダヤ人の長男として生まれたが、父ヘルマンHermann Einstein(1847―1902)の事業失敗のため、生後1年足らずでミュンヘンに移住した。幼年時代をここで過ごしたが、幼年時代は普通の子供に比べて成長が遅く、知的な障害があるのではないかと両親を心配させたほどであった。ただ5歳のとき父に見せられた羅針盤に異常な興味をもち、また6歳からバイオリンを習い始めたが、これは生涯を通じての楽しみとなった。小・中学生としての生活は、ドイツ特有の権威主義的規律と型にはめ込む教育に対する反発によって愉快なものではなく、したがって優等生ではなかった。もっとも12歳のときに学んだユークリッド幾何学だけは彼の興味を大きくひいた。1894年、父とその兄が共同経営していた会社がつぶれたため、一家はアインシュタインひとりをミュンヘンに残してイタリアのミラノに移った。そして翌1895年にアインシュタインも、卒業を目前にしてギムナジウム(長期普通教育の高等学校)を中退し、両親の下に行った。
1895年、電気技師になる目的でチューリヒのスイス連邦工科大学を受験したが失敗し、翌1896年再度の受験で合格、1900年に卒業した。彼の学生生活は、正規の授業にはほとんど出席せず、友人のノートで試験を切り抜け、一方、一流の物理学者の原論文を熟読することが主体であった。1902年になって、友人グロスマンMarcel Grossmann(1878―1936)の父の推薦でやっとベルンの特許局の見習い技師に就職できたが、この仕事の余暇に理論物理学の研究に没頭し、やがて「奇跡の年」1905年を迎える。
[大野陽朗]
1905年、光量子説、ブラウン運動、特殊相対性理論に関する三つの論文を、さらに1907年には固体の比熱の量子論を、いずれもドイツの物理学雑誌『物理学年報』Annalen der Physikに発表した。これらはいずれも近代物理学の発展にとって重要な意義をもつものであったが、なかでも特殊相対性理論に関する論文「運動物体の電気力学」は彼の名声を確固たるものとした。
当時、物理学界の指導者ローレンツの創始した「電子論」は、多くの現象をみごとに説明したが、その「絶対静止エーテル」の仮定に悩まされていた。すなわち、運動系における電磁現象、とくに光速度を観測することにより、その系のエーテルに対する絶対速度をみいだすことができるはずであったが、マイケルソンらの精密な測定にもかかわらず、地球公転速度の影響はみいだされなかった。ローレンツは苦心惨憺(さんたん)のすえ、運動系に対する時空座標の変換としてのローレンツ変換にまで到達したが、静止エーテルの概念を捨てきれなかった。
アインシュタインは、「光速度不変」と「相対性」の二つの要請を置くことにより、この問題をみごとに解決した。これによって、ローレンツ変換は、二つの慣性系の間の時空座標の変換そのものであり、電磁場の方程式がこれらに対して同じ形を保つこと、力学の方程式もそのように一般化すべきこととなった。この後者から、質量保存則がエネルギー保存則に含まれることになった。しかし、この特殊相対性理論のもっとも革命的な考え方は、時空概念の変革であり、これが物理学ならびに哲学、思想に大きな衝撃をもたらした。この理論は、絶対静止エーテル、したがってニュートンの絶対空間を退けたばかりでなく、同時刻の概念、時間の進み方が運動状態に依存することを示すことによって、絶対時間や絶対運動の概念をも退け、時空を四次元の密接な関係に置いたのである。
これらの業績によって、彗星(すいせい)のように物理学界に登場した彼は、1911年プラハのドイツ大学教授、1912年母校であるスイス連邦工科大学教授、1913年にはプロイセン科学アカデミー正会員、カイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)物理学部長に迎えられ、1914年、プランクらの招きにより、ベルリンに移住した。
[大野陽朗]
特殊相対性理論を完成した彼は、ただちにこれを慣性系ばかりでなく、任意に加速運動をする系に一般化する仕事にとりかかった。そのために、ニュートン力学では偶然にすぎなかった慣性質量と重力質量の一致を「等価原理」として積極的に取り上げた。これによって、加速系と重力のある慣性系の等価性、したがって重力と時空の計量との関係が得られるが、その一般的定式化、とくに重力場自身の方程式を一般相対論的共変の形に表すことは容易でなかった。彼は、数学者となった古い友人グロスマンの協力も得て苦心のすえ、リーマン幾何学の形式を用いてついにこれを完成し、1916年、論文「一般相対性理論の基礎」を『物理学年報』に発表した。この理論は難解なうえに、観測による検証の可能性が少ないため、当初はそれほど注目されなかった。しかし1919年、エディントンによる日食観測によって、光線の屈曲が確かめられるに及んで、俄然(がぜん)脚光を浴び、物理学界のみならず、各界の注目を引くようになった。一般相対性理論は単に特殊相対性理論の拡張というだけでなく、「時空間の曲率が物質の分布によって決められる」、すなわち「時空の物質性」を示したものとして、哲学、思想のうえにも大きな意義をもっている。現在、観測技術の精密化により、この理論の検証はさらに確実となり、また宇宙物理学の進歩により、パルサーにおける重力波の検出、ブラック・ホールの存在の可能性などで、原子物理学の発展によって一時圏外に取り残された観のあった一般相対性理論も、ふたたび脚光を浴びつつある。
1922年(大正11)11月、改造社の社長山本実彦(やまもとさねひこ)およびその意を受けた物理学者石原純(いしはらあつし)らの招請により来日した。その前年の1921年にノーベル物理学賞を授与されたが、これは主として光電効果の光量子的解明に対して与えられたものであった。しかし、「相対性理論」のアインシュタインとして、世界の寵児(ちょうじ)となった彼は、世界各国からの講義、講演の依頼で忙殺されるようになった。2週間余りの日本旅行では東京その他で講演を行った。学者、学生はもとより、世紀の天才を一目でも見ようとする民衆は会場にあふれ、難解な理論を平易な表現で説明する彼の温容に魅せられた。また、彼の天衣無縫な、形式を嫌う言動が、岡本一平の漫画、漫文などで伝えられ、人々に親しみを覚えさせた。彼自身も、第一次世界大戦後のドイツ国内のわずらわしさから離れて、東洋に一時の安らぎを覚えたようである。
彼のその後の仕事には、ボース‐アインシュタイン統計など量子論関係のものがあるが、彼自身、量子力学の非決定論的性格に飽き足らず、これを不完全な一時的理論とみて、1927年以来数回ボーアと誌上その他で論争したが、最後まで釈然としなかった。そして彼の興味は、電磁場と重力場の統一とそれによる粒子のふるまいの記述に傾き、この「統一場理論」は、その後アメリカで没するまで続けられたが、あまり実りあるものとはならなかった。もっともいまは、電磁場と弱い相互作用の統一理論が成功し、さらに重力場をも含むすべての相互作用を統一しようという試みが行われていることは、彼の志を別の形で受け継いだものともいえよう。
[大野陽朗]
1933年ナチスのヒトラーが政権をとり、侵略政策とユダヤ人迫害を始めると、身の危険を感じてアメリカに亡命し、プリンストン高等研究所員となり、1955年4月18日、動脈瘤(どうみゃくりゅう)破裂で死亡するまでここにとどまった。ここでの仕事は、前述のほかに、インフェルトとともに、『物理学はいかにつくられたか』を執筆したことで、これは物理学の本質を平易に解説したものとして、世界各国で親しまれている。
以上にみるように、彼のあり方は、強制や枠にとらわれないで、自由に創造することであった。また、ユダヤ人として差別、圧迫を受けた体験から、虐げられた者の味方であった。迫害、虐殺を受けた同胞ユダヤ人への熱い心はもとより、たとえば来日中、人を見下すものとしてけっして人力車に乗らなかったこと、また「自由」の国アメリカでの黒人への差別に反対し、「自分がアメリカ国民の一人だということを感ずれば感ずるほど、この事態がますます私を苦しめる」として、その人権を守るために努力を惜しまなかったことは案外知られていない。まして、ファシズムに対しては、国際平和主義者として心からこれを憎み、ナチスが原子爆弾を製造して世界を制覇することを恐れ、それ以前にこれを製造するよう勧告した手紙に署名してアメリカのF・D・ルーズベルト大統領に送り、これがマンハッタン計画の契機となった。
第二次世界大戦後、彼の願いもむなしく、アメリカ、ソ連による原爆開発競争が際限なく続く状況をみて、彼は原水爆戦争による人類滅亡の危機を訴え、このことを生涯の責務とした。1947年8月には国際連合にメッセージを送り、国連の組織を改めて、強力な世界政府をつくり、核兵器をその管轄下に置くべきことを提唱した。このいささか理想主義にすぎた提唱に対し、ソ連の科学者らの反論があったが、これに対する回答その他でアインシュタインの示した社会主義観は注目される。「資本主義体制では利潤追求のために、技術の進歩は労働の重荷を軽減するよりも、失業の増大をもたらす。この悪弊を除くには、計画経済のほうがよいが、それだけでは社会主義とはいえない。官僚の権力を抑え、個人の諸権利を保護する民主的対抗力が必要だ」という意味のことを述べている。
1955年、アインシュタインはラッセルの呼びかけに応じて核戦争防止の宣言を発した。この宣言は湯川秀樹(ひでき)、パウエルら9名の賛成を得て、同年7月アメリカ、ソ連など6か国の政府首脳に送られ、それはその後、科学者パグウォッシュ会議の契機となったのであるが、アインシュタインは、宣言が送られる直前、同年4月18日、プリンストンの病院で永眠した。「全体的破滅を避けるという目標は、他のあらゆる目標に優先されねばならない」というアインシュタインの原則は、いまや「ノーモア・ヒロシマ」とともに、すべての反核・平和運動の導きの灯となりつつある。
[大野陽朗]
『アインシュタイン著、中村誠太郎他訳『晩年に想う』(1950・日本評論社/講談社文庫)』▽『湯川秀樹監修『アインシュタイン選集』3巻(1970~1972・共立出版)』▽『アインシュタイン、フロイト著、浅見昇吾編訳『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(2000・花風社)』▽『アインシュタイン著、内山竜雄訳『相対性理論』(岩波文庫)』▽『アインシュタイン、インフェルト著、石原純訳『物理学はいかに創られたか』上下(岩波新書)』▽『石原純著、岡本一平画『アインシュタイン講演録』(1971/新装版・1991・東京図書)』▽『L・インフェルト著、武谷三男・篠原正瑛訳『アインシュタインの世界――物理学の革命』(1975・講談社)』▽『E・カッシーラー著、山本義隆訳『アインシュタインの相対性理論』(1976/改訂新装版・1996・河出書房新社)』▽『A・P・フレンチ編、柿内賢信他訳『アインシュタイン――科学者として人間として』(1981・培風館)』▽『S・ギビリスコ著、小島英夫訳『図説アインシュタインの相対性理論――特殊および一般相対性理論と宇宙論』(1989・大竹出版)』▽『D・J・レイン著、岡部哲治訳『アインシュタインと相対性理論』(1991・玉川大学出版部)』▽『B・パーカー著、井川俊彦訳『アインシュタインの遺産』(2004・共立出版)』▽『佐藤文隆著『アインシュタインが考えたこと』(岩波ジュニア新書)』
ドイツ生まれの音楽学者。物理学者アルバート・アインシュタインの従兄弟(いとこ)。ミュンヘンに生まれ、同地の大学でザントベルガーに師事。17世紀のビオラ・ダ・ガンバのドイツ語文献に関する論文で学位をとり、『音楽学雑誌』の初代主幹(1918~1933)を務めるかたわら、音楽批評家としても活躍したが、1939年にはアメリカに移住。1945年にアメリカ市民権を得た。主著に『モーツァルト、その人と作品』(1945)、『イタリアのマドリガル』(1949)などがあり、モーツァルトの研究成果は『ケッヘル作品目録第三版』(1937、増補1947)に示されている。
[細川周平]
理論物理学者。南ドイツのウルムに生まれたが,1年足らずでミュンヘンに移り,そこで幼・少年時代を過ごした。幼いころから父やおじの影響のもとで自然科学や代数,幾何に関心をもつようになった。ルイートポルト・ギムナジウムに入学したものの,型にはまった教育をきらい,権威主義への反感もあって,1895年に中退し,前年イタリアに移っていた家族を追った。その秋チューリヒのスイス連邦工科大学の入学試験に落ち,1年間アーラウのギムナジウムに通い,翌96年スイス連邦工科大学に入学,教員資格取得のため物理学と数学を学び,1900年卒業した。ドイツ市民権を失って(1896)以来無国籍であったが,01年スイスの市民権を得た。卒業後2年間は定職につけず,臨時教員や家庭教師などをして生計を立て,02年にベルンのスイス特許局の審査技師となった。そこに7年間勤めたが,しごとの合間に行った理論物理学の研究は,20世紀物理学の基礎を築くことになった。すでに1901年から熱力学および統計力学に関する論文を発表していたが,05年に光量子仮説,ブラウン運動の理論,特殊相対性理論という,根本的かつ革命的理論を立続けに提出したのである。そのため,この年は〈奇跡の年〉といわれる。同年分子の大きさの決定法に関する論文によりチューリヒ大学から学位を取得した。特殊相対性理論ははやくから評価され,08年にはベルン大学私講師,続いてチューリヒ大学員外教授(1909),プラハのドイツ系大学の教授(1911),スイス連邦工科大学教授(1912)となった。14年春にはM.プランクやH.W.ネルンストのきもいりで,プロイセン科学アカデミー正会員,カイザー・ウィルヘルム研究所の物理学部長としてベルリンに招かれた。15年,一般相対性理論を完成,その理論からの帰結の一つである重力場による光線の屈曲現象が,第1次世界大戦後まもなく(1919),イギリスの日食観測隊によって確かめられたことによって,アインシュタインと相対性理論の名は世界的に爆発的に知られるようになった。数理物理学への功績,とくに光電効果の法則の発見に対して,21年度ノーベル物理学賞を受けた。22年11月には日本を訪れ,各地で熱狂的歓迎を受けた。また,その前後数年にわたり,世界各国を訪れ,講演を試み,見聞を広げ,同様の熱狂的歓迎を受けたが,他方で,彼の徹底した平和主義とシオニズムに対して示した共感とによって反ユダヤ主義反動勢力の攻撃の的となり始め,彼自身ばかりか相対性理論までP.E.A.レーナルト,J.シュタルクといったドイツ科学提唱者たちのやり玉にあがるようになった。33年初め,ナチス政府樹立とともにユダヤ人学者としてドイツを追放され,同年秋アメリカのプリンストン高等研究所に迎えられた。40年,スイス市民権を保持したままアメリカの市民権を得た。45年研究所を退いたが,その後も研究室をもらって終生研究を続けた。この間,1939年にはL.シラード,E.テラー,E.ウィグナーの要請により,核分裂が軍事的に利用される危険性があることを指摘し,それをナチスが開発する可能性のあることを警告する,シラードの起草になる手紙をアメリカ大統領ローズベルトに書き,これがアメリカの原子爆弾開発計画の発端となった。しかし,彼はこの計画になんら関与せず,その進展についてなにも知らなかった。第2次大戦後は,核兵器廃絶と世界連邦達成のためにたゆみない努力を続けた。とくに死の直前にB.A.W.ラッセルとともに発した核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明(ラッセル=アインシュタイン宣言)は,科学者の平和運動の展開に大きな影響を及ぼし,パグウォッシュ会議の発端をつくった。
アインシュタインが研究を始めた20世紀初頭は,X線,放射線,電子といった微視的世界における驚異的な諸発見が相次ぎ,多くの物理学者の目はそれらの実験的研究に向けられていた。しかし,若きアインシュタインはそれらにではなく,物理学の理論的基礎にかかわる問題に注目した。19世紀の終りに,力学のほかに熱力学,電磁気学という理論体系をもつに至った物理学は,その基礎的なことはすべて見いだされてしまったと思われるようになったが,他方で,それまで物理理論の究極目標とされていた,すべての自然現象をそれを構成する要素(粒子であれ波動であれ)の力学によって説明しようとする,いわゆる力学的自然観が深刻な危機を迎えていた。気体が真空中を飛びかう分子群からなると仮定して気体の諸性質を説明する理論(気体分子運動論),光を弾性媒質(エーテル)の波動とみて光の伝搬の諸性質を説明する理論など,力学的自然観はみごとな成功をおさめていたが,他方で,熱力学第2法則を純粋に力学だけから説明することができないこと,また,気体比熱の説明の困難,光学を統一した電磁場理論の力学的基礎づけの失敗などが明らかになってきたのである。
アインシュタインは初め,力学にかわって全物理学を統一的に理解する鍵として熱力学と統計力学のもつ普遍性に注目し,それを追究した。ここで開発された統計力学的手法は,まず光量子仮説とブラウン運動の理論に適用され,その後,彼の量子論研究において一貫して強力な武器となった。液体中の浮遊粒子の不規則運動(ブラウン運動)を分子運動論から純理論的に導き,熱力学の成立限界を示すものとして提出されたのがブラウン運動の理論であった。それはまた,当時まだ仮説としてのみ存在していた原子・分子の実在性の実証へ導くものであった。学位論文はこの研究に密接に関係している。
他方でアインシュタインは,離散的原子の間の遠隔作用に基づく力学と近接作用に基づく電磁場理論の間の非両立性,不整合性,あるいは粒子と場(波動)の間の非両立性,不整合性に注目し,そこから生ずる諸問題を解決しようと試みた。その一つが特殊相対性理論であり,他の一つが光量子仮説であった。
光量子仮説は,すでに1900年プランクによって提出されたエネルギー量子の考えとは独立に出され,しかもプランクの理論に初めて物理的意味を与えるものであった。その後,固体の比熱の量子論(1906-07),光の粒子・波動二重性の証明(1909),量子過程への遷移確率の考えの導入(1916)など,量子論の発展に重要な貢献をしたが,光量子仮説は,多くの経験によって支持されてきた光の波動論(電磁理論)を無視するきわめて大胆なものであったため,20年近く無視され反対された。24年放射を光量子気体として扱い,新しい統計的方法を提出したS.N.ボースの研究を高く評価したアインシュタインは,その方法を物質粒子の理想気体の場合に適用した。これはボース=アインシュタイン統計と呼ばれる。他方で光量子仮説は,1923年のL.V.ド・ブロイの物質波の考えを導き,それがE.シュレーディンガーの波動力学への道を用意した。完成した量子力学が,波動関数を確率的に解釈し,微視的な現象の因果的記述を放棄したのに対して,アインシュタインは微視的な現象も因果的であって確率論はわれわれの情報不足を補うためのものにすぎないと考え,量子力学を物理理論として完全なものとはみなせないと批判し続けた。これに関してのN.H.D.ボーアとの論争は有名で,それが量子力学の解釈に大きな影響を与えた。
相対性理論は従来の力学の枠組みを根本的に変革したものであった。すなわち慣性系における光速度不変と相対性原理に基づく特殊相対性理論によって,ニュートン力学における絶対空間,絶対時間,エーテルなどの概念は捨てられ,新たな四次元世界像が打ち立てられた。質量とエネルギーの同等性は,同じ年この理論から導かれた。さらに相対性原理を重力場に拡張する試みは1907年から始められ,15年一般相対性理論として完成した。20年代から電磁場と重力場とを統一する理論の形成に努力を重ねたが,未完成のまま終わった。
執筆者:西尾 成子
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ドイツ生まれのユダヤ系の理論物理学者.電気会社経営者の長男として生まれる.後年アメリカに亡命し,スイス国籍も保有した.相対性理論で知られる.1900年チューリヒ工科大学卒業.1902年ベルン特許局技師.1902~1904年に統計力学を一般化した“統計熱力学”を構築し,1905年“分子の大きさの新決定法”で学位を取得.ここまでは物理化学分野の業績であり,かれは当初,物理化学者とみなされることが多かった.1905年相次いで発表された“光量子論”“ブラウン運動の理論”“特殊相対性理論”の三大業績で物理学を一変させた.1911年プラハ大学,1912年チューリヒ工科大学,1914年ベルリン大学教授に就任.この間,“固体比熱の量子論”(1907年),“一般相対性理論”(1915~1916年),“ふく射の量子論”(1916年)を発表.光量子論の業績で,1921年ノーベル物理学賞を受賞.1933年以後プリンストン高等研究所所員となる.化学で重要な論文として,ほかに“光化学的当量則の熱力学的導出”(1912年)があり,1914年の論文では“化学的変化は分子の物理的状態変化にもとづく”と述べている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
1879~1955
ドイツ生まれの理論物理学者。主に相対論,量子論,統計力学上の仕事を行う。1905年特殊相対性理論を発表,同年ブラウン運動に気体運動論的理論を応用し,これは統計力学の一つの古典となっている。またプランクの量子仮説を拡張して光量子概念を導入し,光電効果を説明した。15年特殊相対論を拡張して一般相対性理論を立てた。33年,ユダヤ人排斥を行うナチ党が政権をとったので,アメリカに帰化し,晩年は人権擁護運動や国際平和運動の熱心な支持者として活動した。21年ノーベル物理学賞受賞。翌22年来日し各地で講演を行ったことがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…磁性体が磁化したことによりその試料に力学的回転運動が生ずる現象。1915年,A.アインシュタインとド・ハースWander Johannes de Haas(1878‐1960)によって発見された。磁性体の棒をつり下げ,これにコイルを巻いて電流を通じて磁化⊿Mを生ぜしめれば,磁気の担い手のもつ角運動量には, ⊿M=γ⊿Jmagで与えられる変化⊿Jmagが生ずる(γは磁気角運動量比)。…
… この背理を避けるため,20世紀初めスウェーデンのシャーリエC.V.L.Charlier(1862‐1934)は特別な配位の無限階層の宇宙を考えた。しかし無限宇宙の困難を救ったのは彼の不自然な階層構造ではなく,遠い銀河ほど速く後退しているというハッブルの法則であり,物質の存在によって宇宙空間は曲がっているというアインシュタインの一般相対論の考えであった。われわれから後退する遠い銀河からの光は波長がのび(赤方偏移)エネルギーが減少し,宇宙の地平線に近く光速度に近い速度で後退する銀河からの光の波長は限りなくのび,エネルギーは限りなく小さくなるため,オルバースの提出した困難さは除かれるのである。…
…その後の研究により,40年までには核分裂に伴い莫大なエネルギーが放出されること,核分裂が起こる際,中性子が放出されて核分裂反応が連鎖的に持続されることが確認され,核兵器実現の前提条件は整っていたといえる。
[アメリカ]
1939年,第2次世界大戦の勃発直前ドイツの核兵器開発の可能性を憂えたA.アインシュタインはアメリカの大統領ローズベルトに核開発の重要性と緊急性を訴えた。この結果,10月12日〈ウラニウム諮問委員会〉が設置され,40年6月同委員会は国防研究委員会の分科に改編され,さらに41年12月に科学研究開発局(OSRD)に移管された。…
…一方,原子や固体中に束縛されている電子は,電磁波の電界によって力を受け放出されると考えられたので,光電子のエネルギーが電磁波の強度,したがって電界ベクトルの大きさには依存しない事実は,どうしても説明することができなかったのである。 この困難は,光を波としてのみ考えるマクスウェルの理論が不十分なせいであることがアインシュタインによって05年に指摘された。アインシュタインは,光は波としての性質のほかに粒子としての性格も合わせもっていると考えた。…
…しかし相対性理論と量子力学とは,その成立の過程において興味ある対照をなしている。量子力学が,多くの実験事実からいわば強制され,N.H.D.ボーアをはじめ多数の研究者の試行錯誤の結果,徐々に最終的な型に収束したのに対し,相対性理論はほとんどA.アインシュタイン1人によって完成され,しかももっぱらきわめて理論的な整合性を動機として作られた点に著しい特色がある。これがアインシュタインをして現代でももっとも魅力ある物理学者の一人たらしめている原因であろう。…
…マクスウェルの後継者たちも統計集団を弱い相互作用をする同種の系の集合と誤解しており,この誤解は1930年代まで散見される。しかし,アインシュタインはギブズの統計力学とほぼ同じ理論を独力で作り上げた(1902‐05)のみならず,熱力学そのものにゆらぎを導入し(1906),ボルツマンの原理の内容を転倒してエントロピーから熱力学変数のゆらぎの確率分布がW=exp(S/k)で与えられるとした(1907,10)。ニュートンの光粒子説の再提唱と誤解された光量子仮説などにより,アインシュタインは過激とみなされており,統計力学の仕事はほとんど無視されていたが,物理化学分野のH.W.ネルンストが熱力学の第3法則を発見し(1905),比熱は絶対0度で0となることを示すと,プランクの熱放射式をエネルギー等分配則の代りに用いるアインシュタインの固体比熱理論(アインシュタインの比熱式)は注目され,またコロイド粒子のブラウン運動は熱運動であることを予言したアインシュタインの理論は,J.B.ペランたちの実験で検証された。…
…1955年7月に出された〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉の呼びかけを具体化するものとして,第1回の会議がカナダ,ノバ・スコシア州のパグウォッシュで開かれた。以来,年1~2回の割合で世界各地で開かれてきているが,最初の開催地にちなんでパグウォッシュ会議と呼ばれている。…
…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…
…彼は放射(電磁波)とエネルギーをやりとりして平衡状態になっている空洞の壁を振動子の集合とみなし,この振動子のエネルギーが,エネルギー量子hνを単位としたとびとびの値しかとれないとしたのである(プランクの量子仮説)。これに対しアインシュタインは振動数νの放射そのものがエネルギー量子hνから構成されているとし,光(電磁波)はエネルギーhνをもつ粒子としてふるまうと考えれば光電効果が説明できることを示した(光量子仮説)。そしてこの光量子仮説を原子構造にとり入れることによって,N.H.D.ボーアは,原子の定常状態のエネルギーはとびとびの値しかとらず,原子がエネルギー2の定常状態から1(2>1)の定常状態へ遷移するとき,hν=2-1なる振動数νの光を放出するとして,原子スペクトルの規則性に説明を与えたのである。…
…(2)したがって,すべての光化学の初期過程――原子または分子(以下,分子で総称する)が光の吸収に続いて起こす光分解,光異性化,他の分子との衝突による失活や反応,発光,無放射遷移などの過程――は,光子1個が分子に吸収されることによって起こる〉。J.シュタルクとA.アインシュタインは独立に,上記(2)の記述を〈すべての光化学反応は,分子が光子1個を吸収することによって起こる〉と提案していたが,光吸収した分子は必ずしも化学反応を起こすとは限らないので上記のように改められた。最近,強力なパルスレーザーによって,分子が2個またはそれ以上の光子をコヒーレントに吸収して励起される多光子吸収の現象が観測されるようになったので,(2)の〈光子1個〉という記述を〈整数個の光子〉と改める必要がある。…
…ユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学のモデルが存在することは,ユークリッド幾何学の体系に矛盾がないかぎり,非ユークリッド幾何学の体系も無矛盾であること,したがって形式的な演繹体系とみるかぎり,ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は両立しうることを示している。なお,現実の時空はユークリッド的か,または非ユークリッド的かは物理学上の問題であるが,A.アインシュタインの相対性理論は後者と考えるほうが合理的であることを示している。幾何学【中岡 稔】。…
…もしも液体が完全に静止していれば,重力のため個々の微粒子は長い間には沈降していくが,液体の粘性のため,沈降速度は微粒子に働く重力に比例する。この比例係数を微粒子の移動度というが,アインシュタインは,この移動度にkBT(kBはボルツマン定数,Tは絶対温度)をかけたものがちょうど拡散係数Dに等しくなるというアインシュタインの関係式を発見した。この関係式を導くキーポイントは,微粒子も液体と熱平衡になったときは,その運動エネルギーが液体分子のそれと同じくボルツマンのエネルギー等分配則に従うということであった。…
…L.シラードはその中心にあり,さまざまなルートを利用してアメリカ政府に原爆開発を勧告した。その一つがアインシュタインによるローズベルト大統領あての書簡である。この書簡はシラードが起草し,アインシュタインを促して署名(1939年8月2日)させたものである。…
…振動子のエネルギーがhνの整数倍という不連続な値しかとらないことは,古典物理学からは理解しにくいなぞであったが,プランクは荷電粒子による光の放出の機構に未知の部分があり,それが明らかになればなぞも解けるだろうとする立場をとって,苦闘を続けた。
[光量子]
プランクの公式の革命的な含意をくみとったのはアインシュタインであった。1905年に彼は論文《光の発生と変換に関する一つの発見法的観点》を書き,振動数νの光はhνというエネルギーの粒子(光量子)の流れであるとして(光量子仮説),こう主張した。…
※「アインシュタイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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