イギリスの詩人。19世紀前半のロマン派の代表的詩人の1人。4月7日イギリスの北部カンバーランドのコカマスに弁護士の父ジョンと母アンの五人兄妹の次男として生まれ、その生家は今日記念館として公開されている。1778年に母を、その5年後には父を失う。1778年ホークスヘッドの歴史の古いグラマー・スクールに入学、下宿で賄いをしていたアン・タイスンに母親がわりのめんどうをみてもらい、またケンブリッジのエマニュエル・コレジ出身の新任の若い校長ウィリアム・テイラーによって詩作の手引きを受け、大自然のなかに生きる生活とともに、自国の詩や小説のほか『ドン・キホーテ』や『千夜一夜物語』などによって空想の世界を広めた。1787年7月にケンブリッジのセント・ジョンズ・コレジに特別免費生として入学する以前に1000行余の習作「エスウェイトの谷間」を書いていた。大学では華美な風潮や激しい競争意識に反発しながら古典文学やイタリア語の学習に精励するとともに、1790年夏から秋にかけて当時ようやくヨーロッパに高まり始めたアルプス熱に刺激されて友人ロバート・ジョーンズとアルプスへ徒歩旅行をする。1791年1月学士号取得後ただちにロンドンに上京、さらに11月末にはフランス革命で騒然たるパリに滞在、年末にはオルレアンに移り、5歳年上の女性アネット・バロンに出会い、1792年12月には彼女との間に女児キャロラインが誕生する。その間ブロア滞在中に将校ミシェル・ボーピュイから革命の政治的・思想的意義を教えられて大いに共鳴したが、経済的事情で12月に一時帰国、1793年2月英仏の戦争宣言で渡仏の機会を失う。この年『夕べの散歩』『叙景的小品』の二冊の詩集を出版したほか、「ソールズベリ平野」の草稿を書く。
1795年、知人のレズリー・カルバートが亡くなり、900ポンドの遺贈を受けて当面の経済的見通しがつき、妹ドロシーとイギリス南部のドーセットのレイスダウンに落ち着き、読書と詩作のほか、S・T・コールリッジ、ロバート・サウジーのほか急進思想家ゴッドウィンらと交友。1796年には悲劇『辺境の人々』で素材的にはシラーの『群盗』に対応し、思想的にはゴッドウィンの理性論の超克を目ざした。さらに当時のドイツ文学に刺激されたバラッド形式への関心を踏まえてコールリッジとともに創作した物語詩をまとめた『抒情民謡集(リリカル・バラッズ)』を1798年9月に500部出版したが、予想以上の好評を博した。1801年1月には改訂増補して2巻本にして出版、またその「序文」は擬古典主義に対して新しい詩歌の素材・主題・文体ならびに詩人の使命などを論じてイギリス・ロマン主義文学の指標となる。1798年秋から翌年の春にかけて妹ドロシーとドイツのゴスラーに滞在中に着手された長編自伝詩は1805年に完成したが、その後大幅な加筆訂正ののち没後3か月して『序曲』と題して出版された。19世紀には比較的短い作品が愛読されていたが、20世紀に入って厳密な本文研究も進み、この作品がワーズワース文学の核心とみなされるようになった。
1799年ドイツから帰国後10年近く住んで詩作に没頭したグラスミア湖畔のダブ・コテジは、今日関係資料を豊富に展示する記念館として親しまれている。1802年5月にロンズデール侯が亡くなり、その嗣子(しし)からワーズワース家所有地の代価として8500ポンドの支払いを受け、8月カレーに渡り4週間滞在してアネット・バロンと娘キャロラインに会い、10月4日メアリ・ハッチンスンと結婚し、のち5人の子供が生まれた。1807年の『二巻本詩集』は比較的短い優れた作品を集めているが、とりわけ最後の「霊魂不滅を暗示するオード」は叙情性と深い哲学的認識とを融合させた傑作である。1804年ボナパルトが皇帝に即位するに至りフランス革命への期待は完全に失われ、1809年にはスペインを専制下に治めるナポレオン体制を攻撃するパンフレット『シントラ協定論』を出版した。1813年5月にダブ・コテジからやや離れたライダル・マウントに移り、ここで1850年4月23日80歳の生涯を終え、グラスミアの教会墓地に埋葬された。
その間1814年には長編哲学詩『逍遙(しょうよう)』、1816年にはワーテルローでナポレオン軍に大勝した記念に『感謝のオード』、その後数冊の詩集のほか1820年ごろから選集が出版され始め、1843年には桂冠(けいかん)詩人に選ばれている。その詩の特徴は、田舎(いなか)の清純質朴な子供や大人、不幸な境遇の女性を多く取り上げ、簡潔な筆致で描くとともに、外界と内面との照応を幻想的に叙述し、対象の核心に迫る深味のある表現に達している点にある。
[岡 三郎]
『田部重治選・訳『ワーズワース詩集』(岩波文庫)』▽『加納秀夫著『ワーズワス』(1955・研究社出版)』
イギリス,ロマン派の詩人。イングランド湖水地方の旧カンバーランド州(現,カンブリア州)コッカマス生れ。父はロンズデール卿の顧問弁護士。7歳で母を,13歳で父を失う。ホークスヘッド・グラマー・スクールを経てケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを卒業。急進主義思想に傾倒し,革命直後のフランスに1791-92年滞在。フランス女性アネット・バロンAnnette Vallonを愛するが,経済的困難から帰国。残されたアネットおよび2人の間にできた娘キャロラインに対する罪意識,フランス共和制に対する支持とイギリスへの忠誠との板挟み,恐怖政治への幻滅などから極度の精神的落込みを味わった。W.ゴドウィンの影響もあって思想は穏健化したが,ふさいだ心は容易にいやされず,人間的悲惨の認識が《罪と悲しみ》(1791-93),《辺境の人》(1795-96),《廃屋》(1797)などに表されている。95年8月S.T.コールリジと出会い,9月からはドーセット州レースダウンに妹ドロシーDorothy W.(1771-1855)と定住,立直りの契機をつかむ。97年7月サマセット州オールフォクスデンに移り,コールリジとの友情を深めた。その結実として2人の詩を収めた《抒情歌謡集》は,ワーズワース兄妹とコールリジが別個に97年9月ドイツに旅立ったあとの98年に出版された。世評は冷たかったが,英詩に一大革新をもたらした。巻末に置かれた《ティンターン・アベー廃墟数マイル上流で書かれた詩》で,少年期,1793年,98年における自分自身の姿を比較して,自然との本能的な主客未分化の合一がもはや不可能なことを悟るが,それを喪失として嘆かず,〈人間のもの悲しい音楽〉を聞いたのちの成熟への自覚に達するとともに,本能的超能力をもち続ける妹ドロシーに自分の分身を発見し,自我の連続性を希求するところにワーズワース的思考の原型が見られる。
実りのなかったドイツからの帰国後,99年12月の湖水地方グラースミア村はずれのダブ・コティッジ入居を中にはさんで,1795-1805年の〈偉大なる10年間〉を通じてワーズワースは多作であった。1802年春着手された《幼時を回想して霊魂不滅を悟る賦》は中断されたが,かわりに初夏のころ《決意と自立》が書かれる。詩的象徴に高められた蛭(ひる)取りの老人を通じて道徳的強靱さを詩人が学ぶ過程には想像力の極致が見られる。04年2月に書き上げられた《霊魂不滅の賦》は《ティンターン・アベー》に似て,〈観念主義の深淵〉としてとらえられる子ども時代の自然との合一に伴う栄光の喪失をいたずらに嘆かず,子ども時代の記憶と成長への自覚との止揚に到達している。〈偉大なる10年間〉は自伝的叙事詩《序曲》の完成(1805)で飾られたが,この詩は終生にわたって改稿が続けられた。《序曲》のテーマは《逍遥》(1814)にも受け継がれた。後者でワーズワースが自然,社会,宗教に関して展開する議論には,産業革命のもたらした社会的趨勢に対する批判がこめられているが,ビクトリア朝まで生き延び,43年サウジーの後を受けて桂冠詩人に就任し,時代を代表する国民詩人になったことは,歴史の皮肉ともいえよう。
ワーズワースの自然観をめぐって,イギリス経験論哲学や汎神論との類縁性が指摘されてきた。コールリジを介して,哲学思想の影響を間接に受けたことはありうることだが,ワーズワースはもともと思想を本能的に体得した人であり,究極的には彼の正統的キリスト教信仰の立場からは汎神論の立場はとりがたいはずであった。古典主義の詩と比べた場合,ワーズワースの詩のスタイルは平易で自由になってはいるが,《抒情歌謡集》再版の序文の理想(〈イギリスの田舎の日常的題材を,日常的言語を用いて表現する〉)がいつもかなえられているわけではない。心理の深層を掘り下げる詩句はときとして晦渋(かいじゆう)でさえあるが,その洞察の深さにおいて独自のものがある。
日本においては明治20年代以来,ワーズワースの紹介,翻訳,論考が多く行われてきた。最初期には山田美妙,植村正久などの名が挙げられるほか,夏目漱石が《英国詩人の天地山川に対する観念》の中で他の詩人と比較してワーズワースの自然観を的確に把握した。その後,島崎藤村,宮崎湖処子が続くが,より熱烈な傾倒は国木田独歩において顕著であり,論考や注釈のほか,短編小説《春の鳥》(1904)における翻案が見られる。このようなワーズワース熱は,昭和に入って田部重治に受け継がれた。
執筆者:山内 久明
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…前任者が死ぬとすぐに,時の首相の推薦によって任命される名誉職的な終身官であったから,選考の基準は必ずしも詩人としての実力や名声によらず,身びいきも加わって,無難な二流詩人が選ばれることが多かった。しかし1843年に推薦されたワーズワースは,公的慶弔の詩作にはたずさわらないとの条件の下にこれを受けた。これ以来この種の詩作は,桂冠詩人の義務ではなく,自発的意志によってのみ行われるならわしである。…
…レーク・ディストリクトの自然は18世紀後半にその崇高美を広く知られるに至った。この地方で生を受け,青年時代の一時期を除き生涯の大半を過ごしたワーズワースの詩魂は,この地方の自然の崇高美によってはぐくまれた。彼の代表作の多くは,1799年末から1806年まで居を構えたグラースミアのダブ・コティッジで書かれた。…
…イギリス・ロマン派の詩人ワーズワースの自伝的叙事詩。1799年に着手,1805年に完成。…
…時まさにイギリス・ロマン主義の時代である。1792年17歳の若き画家J.M.W.ターナーが,翌年,青年詩人ワーズワースがここを訪れる。ターナーはその後幾度か足を運び数多くのすぐれた作品を残し,ワーズワースは5年後の98年に妹とここを訪れ,〈人間性の奏でる静かな悲哀の音色〉を耳にして《ワイ川再訪に際しティンターン・アベーの数マイル上流にて詠めるうた》を書く。…
…《湖処子詩集》(1893)や彼の編んだアンソロジー《抒情詩》(ほかに国木田独歩,松岡(柳田)国男,田山花袋など)(1897)中の新体詩は,農本的自然感情と宗教的敬虔さの融け合った清冽,平明な詩情を伝えている。評伝《ヲルヅヲルス》(1893)でワーズワースを本格的に紹介。97年民友社を離れたのちは,独自の伝道活動に力を注いだ。…
…この系譜の中からは,激変する社会の現実と自己の存在との乖離(かいり)を感じ,愛に満たされず何かを求め続け現実から逃避していく〈世紀病mal du siècle〉を病んだロマン派的魂の典型が浮かび上がる。 イギリスにおけるロマン主義は,1800年ころにワーズワースとコールリジを中心に提唱され,1810年から20年にかけてバイロン,シェリー,キーツ,あるいはブレークらの詩人の登場によって頂点を迎えた。個々の作家はロマン主義的な思想と主題とを豊かに展開しているとはいえ,ロマン派としての運動体を形成することはなかった。…
※「ワーズワース」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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