江戸末期に発行された銀貨。天保8年(1837)12月に創鋳された。秤量貨幣の丁銀・豆板銀とは異なった表記貨幣で,一分銀4枚をもって小判1両に換えた。天保一分銀のほか,安政6年(1859)8月に安政一分銀が発行され,慶応4年(1868)7月に貨幣司吹一分銀(別称,亜鉛差一分銀)が鋳造された。幕府は安政5年欧米諸国と締結した通商条約において,外国の貨幣と日本の貨幣とを同種同量方式により交換することを規定したので,洋銀(メキシコ・ドル)1枚(1ドル)と一分銀3枚とが交換され,一分銀4枚で小判1両に引き換えられ,日本の金貨が海外に盛んに流出した。幕府は安政6年12月から7匁以上の量目のある洋銀に〈改三分定〉の極印を打ち国内で通用することを認めた。こうした幣制の混乱に対処するために,幕府は万延1年(1860)に金貨の改鋳を実施し,海外諸国との金銀比価の調整につとめた。
執筆者:作道 洋太郎
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1837年(天保8)から1869年(明治2)にわたって銀座が発行した金一分を額面とする計数銀貨。4個で小判1枚に相当した。一分金と同じ短冊形で、表裏とも小桜花が20個並ぶ額縁模様がある。重量は2.3匁で、品位は「上銀」。ただし当初ほぼ純銀だったが、1859年(安政6)に改鋳されて89%、1868年(明治1)には81%の純分率となった。計数銀貨としては1772年(安永1)に初めて発行された南鐐(なんりょう)二朱銀(8個で小判1枚に相当)以降、文政改鋳期には一朱銀も新鋳されていて、金貨に代わる金位の銀貨が19世紀に入ると増発された。その素材となったのは丁銀・豆板銀などの秤量銀貨であって、これにより西日本を中心とする銀遣い経済圏では銀目建てで取引しながら、決済では「金貨」を授受する、いわゆる「銀目の空位化」が進行した。天保一分銀は文字通りの金貨である小判・一分金よりも大量に鋳造・使用され、安政開港期には日本の標準貨幣になるまでに成長した。
[岩橋 勝]
『日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣4』(1973・東洋経済新報社)』▽『岩橋勝著「近世の貨幣と信用」(桜井英治・中西聡編『流通経済史』所収・2002・山川出版社)』
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