日本のチター属撥弦楽器。一絃琴とも書く。板琴(はんきん),須磨琴(すまごと),一つ緒(ひとつお),独弦琴などともいう。1弦の楽器は原始的な構造の楽弓(ミュージカル・ボー)から,共鳴装置を有するものまで広く世界に分布する。また,古代ギリシア以来,ヨーロッパで,おもに正確な音程を得るための道具として用いられた,1本の弦を張ったモノコルド(モノコード)がある。日本の一弦琴は本来細長い1枚の板に弦を張っていたが,現在使われるものは胴の形が中国の琴(きん)に似てくびれがあり,一木の裏側をくり抜いて裏板を張ったものもある。胴の長さ3尺6寸6分(約111cm),幅は頭部3寸5分(約11cm),尾部2寸6分(約8cm)くらい。頭部の端を竜頭(りゆうず),尾端を竜尾といい,竜頭の近くにある竜眼に通した弦を竜尾の近くに立てた転軫(てんじん)に巻いて止める。転軫を立てる孔を竜孔という。転軫は古くは銀杏形,今日では三味線の糸巻に似た棒状のものを用い,竜眼の近くに木製の駒を置く。胴の表面に螺鈿(らでん)や象牙の12個の徽(暉)(き)を弦に沿ってはめこみ勘所(かんどころ)を示す。琴を低い4脚の琴台にのせて,奏者は正座し,左手中指にはめた転管または長管で徽を目安にして弦を押し,右手人差指に竜爪(りゆうそう)または短管をはめて弦を弾く。この竹または象牙の義甲(弦をかき鳴らす道具)を芦管(ろかん)または葭管(かかん)という。
日本における一弦琴の起源には諸説があって明らかではない。《日本後紀》延暦18年(799)7月の条に,天竺人が小舟で三河国に来て一弦琴を弾じ,その歌声は哀楚であったとある。松平四山の《当流板琴大意抄》(1841)では,9世紀に在原行平が須磨に流されたとき,庇(ひさし)の板で一弦の琴を作りつれづれを慰めたので〈須磨琴〉と呼ばれて一弦琴の祖となったと記している。中国では唐代に一弦琴が用いられ,《玉海》によると,唐の高祖(在位618-626)が隋の九部伎を用いたときに〈独絃琴〉の名が挙げられている。
今日の一弦琴は,中根淑(香亭。1839-1913)の説によると,寛文(1661-73)の初めごろ中国から伝えられ,宝暦・明和(1751-72)のころに河内国金剛輪寺の僧覚峯律師(号は麦飯真人。1729-1815)が世に広め,その門人に水戸の家老中山備前守信敬,奈良の久保但馬,大坂の中川蘭窓などがあり,幕末には大坂の真鍋豊平(1809-99)が新作によって隆盛に導いた。明治になって真鍋の高弟である土佐の徳弘太橆(たいむ)や,東京の富田豊春がその普及に努めたが,明治末から衰微し,現在ではわずかに行われるのみである。1955年に秋沢久寿栄(1883-1968),57年に徳弘の次女山城一水(1887-1963),61年に倉知志ん(1877-1967)と平野ヨシ(1875-1965),77年に松崎一水(1895-1988),80年に稲垣積代(つむよ)(1913- )が記録選択無形文化財に指定された。
楽曲に関しては,一弦琴用に作曲されたものを本曲,箏曲や俗曲から一弦琴に移したものを外曲と呼ぶ。本曲は歌を主とし,外曲は箏曲の《六段》《八段》《乱れ》などの器楽曲も含む。中川蘭窓の《板琴知要》(1803)によると,一弦琴の最古の曲は覚峯律師伝の〈わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に,もしほたれつつ佗ぶと答へよ〉であるとし,ほかに催馬楽式の楽譜を付した数首の和歌も記している。現在までの曲数は100余曲にのぼり,重要な楽曲には,真鍋豊平著《須磨の枝折(しおり)》(第1編1848,第2編1867)所載の《今様》《須磨》《清き渚》《鶴が音》《友千鳥》《浮世草》《須賀曲》など,徳弘太橆著《清虚洞一絃琴譜》(1889)中の《泊仙操》《楓橋夜泊》などがある。《泊仙操》のように手事(てごと)風の合の手をもち複雑な曲もあるが,一弦琴は1弦を右手人差指だけで弾ずるので,速い変化に富んだものよりも,高雅で優美なゆるやかな曲が多い。一弦琴には数字で勘所を示す楽譜や解説書が数多くある。
→二弦琴
執筆者:三谷 陽子
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