「梁塵秘抄口伝集‐一」に「催馬楽は、大蔵の省(つかさ)の国々の貢物納めける民の口遊(くちずさ)みに起これり。〈略〉催馬楽は、公私(おほやけわたくし)のうるはしき楽(あそび)の琴の音、琵琶の緒、笛の音につけて、我が国の調べともなせり」とある。
雅楽歌謡(うたいもの)の一つ。民謡に取材し,管楽器,弦楽器および笏拍子(しやくびようし)の伴奏でうたわれる。冒頭部を除き,曲全体は拍節的なリズムをもち,おなじ雅楽歌謡の朗詠に比べると躍動感のある曲趣を感じさせる。歌詞の中に種々の軽妙なはやしことばを伴うのも,特色の一つである。
催馬楽の語源については諸説あり,一定しない。外国語に基づくとする説,雅楽関係のほかの曲名がなまったとする説,馬子歌に起因するという説などがある。9世紀半ば859年(貞観1)にはすでに催馬楽の名手がいたという記事がみられる(《三代実録》第三)が,さかんに行われたのは10世紀後半(平安中期)のようである。大嘗会(だいじようえ)に作物を提供する悠紀(ゆき),主基(すき)の地方の民謡や,当時,みやこに流行した小粋な歌などが原曲である。11世紀末~12世紀に至り,しだいに他の芸能の流行におされて下火になり,さらに15世紀,応仁・文明の大乱の時期を経て,まったく影をひそめてしまった。その後17世紀に至り1626年(寛永3),将軍徳川家光が上洛し,二条城に後水尾天皇を招いてもてなした際,古譜を基に復元したのが《伊勢海》という曲である。その後,逐次,復元再興し,明治期の宮内庁楽部の選定曲(正式のレパートリー)としては以下の6曲を数え,現在に至った。《伊勢海》《更衣(ころもがえ)》《安名尊(あなとうと)》《山城(やましろ)》《美濃山》《席田(むしろだ)》の6曲であり,ほかに,大正期になってから復元が試みられた《西寺(にしでら)》など4曲が数えられる。
催馬楽は朗詠とともに管絃の演奏会のプログラムに加えられるのが通例となっており,歌の伴奏も管絃の諸楽器があたる。歌唱は数人による斉唱で行われるが,このうち冒頭の句は句頭といわれる主席唱者の独唱による。なお句頭は笏拍子を手にもち,これを打つことによって,曲の開始や,斉唱が加わってからの拍節的なリズムをリードする役目をも担っている。伴奏楽器は管楽器の篳篥(ひちりき)と竜笛,それに笙が各1名ずつ,弦楽器の楽箏,楽琵琶が1面あるいは数面ずつに笏拍子である。管楽器は歌の旋律をなぞって付けられ,本来は和音を奏するのを旨とする笙までが,和音奏法をやめ,歌の旋律音を一竹(いつちく)あるいは二竹で拾い吹きする。弦楽器は主として催馬楽の拍節的なリズムを際だたせることに役立っている。これら伴奏楽器群のことを付物(つけもの)と総称する。
呂・律の分類について。管絃の御遊において,演奏曲目をその調子に従って呂・律に分類する習慣があり,催馬楽もこの習慣に従って呂の催馬楽,律の催馬楽に分類されている。しかし,現行の催馬楽においては,この呂・律の分類は,呂・律の音階構造とは直接の関係はもっておらず,したがって呂の催馬楽といわれている曲の旋律が,呂音階に基づいてできているとは必ずしもいえない。おそらくそれは,各曲の主音〈宮(きゆう)〉にとる音高の名称を唐楽六調子の名称になぞらえ,さらにその調子を理論上属している呂・律の分類にあてはめたものではあるまいか。
催馬楽のリズム上の分類に,五拍子(ごひようし)と三度拍子(さんどびようし)とがある。この解釈についても諸説あるが,要するに現行曲においては,五,三などの数は,曲の1区分の間に打たれる笏拍子の数に一致している。
執筆者:増本 伎共子
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平安時代の歌謡。もと風俗歌であった歌謡を、外来音楽である唐楽(とうがく)風に編曲して歌ったもの。おもに宮廷貴族の祝宴、遊宴の場で、大和笛(やまとぶえ)、和琴(わごん)、琵琶(びわ)などの伴奏で、笏拍子(しゃくびょうし)を打ちながら歌われた。旋律の違いで、律(りつ)・呂(りょ)の二つに分類される。文献上の初見例は、『三代実録』貞観(じょうがん)元年(859)10月23日のくだりに、薨去(こうきょ)された尚侍広井(ないしのかみひろい)女王が催馬楽歌をよくされたとあるものであるが、その20~30年前の仁明(にんみょう)天皇のころが催馬楽流行の一頂点であったらしい。『源氏物語』の巻名にも「梅枝(うめがえ)」「総角(あげまき)」「東屋(あずまや)」などの催馬楽の曲名がみえている。催馬楽の名義については、諸国から貢物を大蔵省に納める際、貢物を負わせた馬を駆り催すために口ずさんだ歌であったからとする説、神楽(かぐら)歌の前張(さいばり)の拍子で歌ったからとする説、唐楽の『催馬楽(さいばらく)』の曲調で歌ったからとする説、譜本の律旋冒頭にある『我が駒(こま)』の歌詞「いで我が駒早く行きこそ」によったとする説など諸説あるが、確かなところは不明である。
内容は多様だが、民衆の生活感情、とくに男女の恋愛を歌ったものが多い。一方で、大嘗祭(おおにえのまつり)の風俗歌、新年の賀歌などもみいだされる。その内容からみて、奈良時代の末から平安時代の初めにかけて発達、完成したものらしい。歌謡の形式は多く不整形だが、『あな尊と』『梅が枝』など短歌形式に還元されるものも少なくない。平安中期に源家(げんけ)、藤(とう)家の2流が生じて催馬楽を伝え、律旋は『我が駒』『沢田川』など25首、呂旋は『あな尊と』『新しき年』など36首、計61首が残されている(ほかに『簾中抄(れんちゅうしょう)』には、律旋2曲、呂旋4曲の名をあげている)。
催馬楽は宮廷芸能として長く続いたが、室町時代にはほとんど廃絶した。しかし、1626年(寛永3)後水尾(ごみずのお)天皇の勅令により『伊勢海(いせのうみ)』が再興されたのを最初に順次再興され、1876年(明治9)宮内庁楽部の選定曲として『安名尊(あなとうと)』『山城(やましろ)』『席田(むしろだ)』『蓑山(みのやま)』『伊勢海』『更衣(ころもがえ)』の6曲が、さらに1931年(昭和6)には『美作(みまさか)』『田中井戸(たなかのいど)』『大芹(おおせり)』『老鼠(おいねずみ)』の4曲が再興されて加えられた。現行曲は宮内庁の雅楽公演などで、管絃(かんげん)の唐楽演奏の合間に演奏されることがある。
[多田一臣]
『土橋寛・小西甚一校注『日本古典文学大系3 古代歌謡集』(1957・岩波書店)』▽『山井基清著『催馬楽訳譜』(1966・岩波書店)』
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日本古来の宮廷歌謡。地方の風俗歌が雅楽化したもの。名称の由来には諸説がある。859年(貞観元)10月の広井女王の薨伝に「特に催馬楽歌を善くし」たとあるのが初見。7世紀末~9世紀初頭に都に伝えられた風俗歌は,9世紀前半には宮廷の催馬楽歌として整備されていたであろう。以後,醍醐朝までの時期に雅楽の楽曲の影響をうけ,楽器も横笛(おうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・琵琶・箏(そう)といった雅楽器を伴奏として奏されるようになる。平安中・後期には隆盛し,宇多天皇の皇子敦実親王を流祖とする源家と,源博雅を流祖とする藤家などによって伝承された。のちしだいに衰退し,室町時代には廃絶したが,江戸初期以降また復興した。
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…上演の日時に規定があり,一部の遊宴,娯楽的なものを除き,原則として公開されないことも祭式芸能の特徴である。(3)の平安時代の新声楽には〈催馬楽(さいばら)〉と〈朗詠〉とがあり,前者は民間歌謡を起源とする歌詞を唐楽・高麗楽的な節まわしで歌い,後者は漢詩を吟詠するもので,ともに主として唐楽系の楽器を用いる。
【楽器】
管楽器,弦楽器,打楽器の3種は,それぞれ奏法によって,〈吹きもの〉〈弾きもの〉〈打ちもの〉とよばれる(表1)。…
…このために9世紀半ば,仁明天皇のころから約半世紀にわたって,いわゆる楽制改革が行われた。この運動の一環として,外国音楽の様式に日本の歌詞をはめこんだ催馬楽(さいばら),さらにそれが日本的になった朗詠の2種の新声楽が生まれた。また,宮中の祭祀楽も御神楽(みかぐら)として,その形態が整えられ,雅楽の中に含まれるようになった。…
…ユリはまた,一つの分野の中でも,何通りもの唱法,奏法に細分されたり,ほかの技法と結合したりするので,旋律そのものと,それらの名称との相関関係は,いっそう複雑になる。 雅楽では,ユリの語をあまり多用しないが,管楽器に由(ゆる)があり催馬楽(さいばら)に容由(ようゆ∥ようゆう)がある。この容由は,入節(いりぶし)との区別がややあいまいである。…
※「催馬楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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