日本歴史地名大系 「壱町目」の解説 壱町目いつちようめ 岐阜県:岐阜市加納町壱町目[現在地名]岐阜市加納本町(かのうほんまち)中山道(本町筋)に沿い東西に延びる両側町。加納二六町の一。東は七軒(しちけん)町、西は弐町目に至る。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によれば、町東端は道幅の広い七軒町南端に結ばれ、町西端を北に折れると北魚屋(きたうおや)町、南に折れると南魚屋町から長刀(なぎなた)堀へ通じる。家屋は九町目まで道両側に櫛状を呈して整然と立並ぶ。元和六年(一六二〇)に岐阜町の上野・北原両家が来住以後、同町からの移住者により形成されたという。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)によれば、町の長さ八二間半、家数二七、ほか横町借家一。寛延三年の改帳(徳川林政史研究所蔵)では町の長さ南六〇間余・北八四間余、道幅三間。 一町目いつちようめ 京都市:上京区中立学区一町目上京区東堀川通中立売下ル南北に通る東堀川(ひがしほりかわ)通に西面し、南は上長者町(かみちようじやまち)通(旧土御門大路)。平安京の条坊では左京北辺二坊南側の地で、平安中期以降は土御門大路(つちみかどおおじ)堀川小路北の地。官衙町の「女官町」にあたる(拾芥抄)。寛永一四年(一六三七)の洛中絵図に「堀川壱町目」、寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「堀川ざいもく町」とあり、天保二年(一八三一)の改正京町絵図細見大成で「一丁目」とみえる。 一町目いつちようめ 京都市:上京区待賢学区一町目上京区大宮通椹木町下ル南北に通る大宮(おおみや)通(旧大宮大路)の両側町で、北は椹木町(さわらぎちよう)通(旧中御門大路)、南は丸太町(まるたまち)通(旧春日小路)。平安京の条坊では左京二条二坊一保一町の西側の地。平安中期以降は大宮大路春日小路(かすがこうじ)の北の地。一町の地は官衙町の「東宮町」で、この西は大宮大路(拾芥抄)。 一町目いつちようめ 兵庫県:赤穂市赤穂城下一町目[現在地名]赤穂市加里屋南(かりやみなみ)城下町の最南端で城に最も近く、東西に九六間の両側町。町のほぼ中央で南北に延びる通(とおり)町と交差する。町筋の東の川筋と南と西の侍屋敷に接する三ヵ所に木戸がある(宝永元年加里屋町絵図)。松平輝興時代絵図に「一丁目」とみえ、南側に紺屋(こんや)町と風呂屋(ふろや)町があった。 一町目いつちようめ 京都市:上京区出水学区一町目上京区松屋町通出水下ル南北に通る松屋町(まつやまち)通を挟む両側町。平安京大内裏「左近衛府」の跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。「坊目誌」は町名由来を、聚楽第南端の出水(でみず)通から一町南に位置することによると記すが、実際は当町域内を東西に南外堀が通っていた。町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「松屋丁壱丁目」とみえ、以後この呼称が多く用いられたが、寛永一八年以前の平安城町並図では「上松や町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「一丁目」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by