翻訳|Victoria
イギリスの女王。在位1837-1901年。ジョージ3世の四男ケント公エドワードの息女。母はドイツ人で,ザクセン・コーブルクのザーツフェルト公フランシスの娘。ロンドンのケンジントン宮殿で生まれてまもなく父を失い,母ケント公妃に育てられたため,イギリス王室の世継ぎでありながら,主としてザクセン・コーブルク王家の姻戚関係の中で,またドイツ文化の影響を強くうけて成長した。ケント公妃が娘の養育にあたり最も頼りにしたのは,彼女の兄レオポルド公(後のベルギー王レオポルド1世)であり,ビクトリアの養育係に任命されたのは,ザクセン・コーブルク出身のレーツェン男爵夫人であった。1840年,21歳のとき,彼女と同年で従弟にあたるザクセン・コーブルク・ゴータの王子アルバートと結婚する。彼女は直情径行の人で,高貴な生れと育ちに特有な我の強さをもち,ドイツびいきで,しばしば外交をはじめとする国家の諸問題に干渉しようとした。彼女の統治は〈君臨すれども統治せず〉という現代君主政の一つの模範とされているが,今日彼女に与えられているこの栄誉は,少なからず彼女の周辺にあって治世を支えた人々の努力にもよる。とくに夫のアルバートの果たした役割と,そして何よりも歴代の首相,大臣たちの政治と時代に対する洞察と的確な対応がそれを可能とした,といいうる。彼らは女王を尊敬し,その君主としての権威に頼りながらも,政治には素人の彼女の干渉をいつも適切に拒否したのである。
1837年に18歳で即位した当初,娘の彼女は,時のホイッグ党内閣首相であったメルバーンから大きな影響をうけ大のホイッグびいきとなった。39年にメルバーンが辞任したとき,内閣首班の座は,本来ならばトーリー党の党首R.ピールに移るはずであった。だが,彼女は,ピールが組閣の条件としてレーツェン男爵夫人をはじめとする宮廷女官の更迭を求めたことに立腹してピールの組閣を認めず,ひいきのメルバーンをさらに2年間政権におしとどめた。その後,君主の常として,むしろ保守的なトーリーの立場に立つようになったが,彼女に二大政党制の機能をそれなりに教えたのは,夫のアルバートであった。また19世紀中葉におけるパーマストンの自由主義外交も女王夫妻の絶えざる頭痛の種であった。ドイツびいきの夫妻は,終始,プロイセンによるドイツの統一を支持し,機会があるごとにその立場からパーマストンに圧力をかけたが,彼は最後までそれに屈しなかった。女王はアルバートを心から愛し,政務についても多くを彼に頼っていたので,61年に彼が死んだときは悲嘆のどん底に突き落とされた。それ以後は,いつも喪章をつけ,公式の行事にも欠席するようになったため,一時は共和主義がジャーナリズムをにぎわしたほどであった。だが,70年代にいたって帝国主義が時代の潮流となり,保守党のB.ディズレーリが安定政権を樹立するにいたって女王も元気を回復し,国民の前に繁く姿を現すようになった。女王は,ことのほかディズレーリを寵愛し,76年,彼からインド皇帝の称号を奉られ(国王称号法に基づく。宣言は翌1877年),これを喜んで受け入れた。晩年のビクトリア女王は,まさにイギリス帝国の象徴であった。87年と97年の女王即位50,60年記念祝典は,イギリスの全植民地から代表がロンドンに参集して盛大に祝われ,全世界にイギリス帝国の威容を示した。ビクトリアには4人の王子と5人の王女があり,そのいずれもがヨーロッパの諸王家と婚姻関係を結んだ。とくに長女のビクトリアは,プロイセン王フリードリヒ3世に嫁し,ウィルヘルム2世の母となった。1901年に彼女が死んだとき,彼女には40人の孫と37人の曾孫があった。
→ビクトリア時代
執筆者:村岡 健次
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…イギリスの伝記文学に新しい感受性を導き入れたことで知られているが,その方法は,第1次大戦後の価値観喪失という精神風土に根ざした鋭利で冷厳な批判の目で対象の偶像性をはぎとることにある。その題材にとり上げられた人物には《ビクトリア朝のお偉方》(1918)のF.ナイチンゲール,ゴードン将軍やビクトリア女王(《ビクトリア女王》1921)などがあるが,嘲笑を秘めた優雅な文体は,彼がフランスの古典劇,心理小説に精通していることから身につけた特徴だろう。伝記作品にはほかに《エリザベスとエセックス》(1928),《ささやかな肖像》(1931)があり,批評作品として,《フランス文学の道標》(1912)などがある。…
…イギリスがインドを直接支配した期間のインドの呼称。インドがイギリス王領に移管されてしばらくした1877年から,イギリス女王ビクトリアは〈インド女帝Empress of India〉の称号を合わせ持つことになり,その後のイギリス国王も代々インド皇帝と名のった。帝国の中にもう一つ帝国ができたことになる。その後イギリスの領土拡張の時代になったが,インドはイギリス帝国の中で常に一つの独自な構成部分とみなされ,自治領や他の植民地とは区別されていた。…
…18世紀までは遺伝病とは気づかれず,アメリカの医師オットーJohn Conrad Otto(1774‐1844)が19世紀初頭はじめて遺伝病であることを明らかにし,血友病――ヘモ(血)+フィリア(友)――という名称は,1828年にシェーンラインによって与えられた。歴史の中で血友病の悲劇として知られるのは,イギリスのビクトリア女王の家系である。ビクトリア女王には9人の子女があったが,3人の王子のうち,レオポルド王子が血友病のため31歳で死亡し,その娘アリス公女にも血友病の男児が生まれた。…
…ビックス・バイダーベック,デューク・エリントン,アート・テイタム,そしてジョージ・ガーシュウィンの作品には,その影響がよく表れている。
[伝播と逆輸入]
イギリス王室は早くから黒人の音楽・芸能に興味を抱き,すでに1850年代,ビクトリア女王は〈ダンスの王様たち〉と呼ばれたグループ〈ジュバ〉を王室に招いている。黒人芸人バート・ウィリアムスは第1次世界大戦前に,王室でケークウォークを披露したし,1919年には,ジャズをヨーロッパに紹介したW.マリオン・クックの黒人バンドも,御前演奏を行っている。…
…彼女も啓蒙専制君主を自認する政策を展開したが,晩年は農奴制を強化するとともにポーランド分割に積極的に加わり,ツァーリズムの再編に一役買った。女子に王位継承権が認められていたイギリスでは,1837年ハノーバー朝のビクトリア女王(在位1837‐1901)が即位する。ハノーバー朝はドイツのハノーファー家の出身であるが,ビクトリアの即位に伴い,女子相続を認めない同家との同君統治の関係は消滅した。…
…この王朝は,その後名称を変えながら現在まで継続している。すなわち,1901年,ビクトリア女王が没し,エドワード7世が即位するに際して,父(アルバート公)の家名であるサックス・コーバーグ・ゴータSaxe‐Coburg‐Gotha家と改称,さらに,17年にはドイツ系の名前を嫌って,ウィンザー家と再改名し,現在に至っている。 ジョージ1世時代(1714‐27)の1715年には,スコットランドにジャコバイト(ジェームズ2世の子孫を戴く)の乱が発生したが,鎮圧された。…
…ビクトリア朝時代の植民地拡大により,内外の美術工芸品,珍品が多く収集され,57年博物館の複合体として現在地に建設された〈サウス・ケンジントン博物館〉に移る。その後も収蔵品は増大し,99年,増築工事の定礎式の際,ビクトリア女王は夫君アルバート公の名を連ねた現在の名称を与えた。現在展示は〈サウス・ケンジントン博物館〉時代の基礎コレクションとそれ以外の収蔵品に分けられ,前者は時代や国別に各種の代表作を通覧できる部屋と,ジャンルごとに同一種の作品が陳列される部屋とで構成されて,アマチュア,専門家双方に対する配慮がなされている。…
…字義どおりには,1837年から1901年に至るイギリスのビクトリア女王の治世をいう。だが通常は,その治世の中でも,とくにイギリスが世界経済の覇者となった1840~70年代のこの国の〈黄金時代〉を含意し,しかもこの時期の生活,文化とのかかわりで用いられる。…
…またチャールズ1世が1647‐48年にカリスブルック城に幽閉されている。カウズの近くにあるオズボーン・ハウスOsborne Houseは,ビクトリア女王がこよなく愛した海浜別荘であった。夫アルバート公自身が設計にあたり,女王はここで初めて海水浴を体験し,この館で息を引き取った。…
※「ビクトリア女王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
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