三入庄(読み)みいりのしよう

日本歴史地名大系 「三入庄」の解説

三入庄
みいりのしよう

荘域は根谷ねのたに川流域の可部かべ大林おおばやし・同上町屋かみまちや・同下町屋・同桐原とげ・同上原うえはら・同可部の地一帯と推定される。

保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)に石清水八幡宮寺領として安芸国の「三入保」が記される。養和元年(一一八一)一二月八日の後白河院庁下文案(新熊野神社文書)には京都新熊野いまくまの社領の一つとして「安芸国三入庄」とある。三入保から三入庄への転換の詳細は不明であるが、新熊野社は永暦元年(一一六〇)一〇月に後白河院が御所の法住寺ほうじゆうじ殿(跡地は現京都市東山区)の近くに紀伊熊野権現を勧請したもので、応保二年(一一六二)三月の遷宮に際しては、平清盛が奉幣使を勤めている(百錬抄)。この頃の清盛は安芸国との結び付きを一段と強めており、三入庄の立荘にかかわったと推定してもよかろう。当庄は「和名抄」のみり郷の系譜を引く荘園と考えられ、嘉禎元年(一二三五)一一月一二日の安芸三入庄地頭得分田畠等配分注文(熊谷家文書)によると、約一割の土地は長尾里・仁田里・松田里などの里と坪で記載されており、条里の施行地域であったことをとどめている。

承久三年(一二二一)九月六日の関東下知状(熊谷家文書)で、武蔵国熊谷くまがや(現埼玉県熊谷市)に本拠をおく鎌倉御家人で、源平合戦の武将として知られる熊谷直実の子孫直時は、三入庄地頭職に補任された。これは父直国が承久の乱の際に近江の瀬田せた(現大津市)で討死した功によるものである。その後弟祐直(資直)の成長に伴い所領分割の問題を生じた。文暦二年(一二三五)七月六日の関東下知状(同文書)は、祐直を三入庄三分一地頭職として認めることによって、相論に決着をつけようとしたものであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三入庄」の意味・わかりやすい解説

三入庄
みりのしょう

広島市安佐北区可部(かべ)町にあった新熊野社領の荘園(しょうえん)。「みいりのしょう」「みるのしょう」ともいう。荘域は明確ではないが、太田川の支流根之谷川、桐原(とげ)川沿いの上屋町、下屋町および桐原を中心に存在したと推定される。熊谷直家(くまがいなおいえ)の孫直国が承久(じょうきゅう)の乱(1221)に討ち死にし、その勲功として直国の子直時に三入庄地頭職が与えられ、以後熊谷氏の中核的所領となった。1235年(嘉禎1)の惣領(そうりょう)直時と義弟祐直(すけなお)とによる三入庄地頭得分(とくぶん)の分割に伴う注進状によれば、田地55町70歩、畠地19町7反300歩、栗(くり)林6町300歩、狩蔵山(かりくらやま)のほか荘内諸社として、八幡宮(はちまんぐう)、大歳神(たいさいじん)、崇道(すどう)天皇、新宮(しんぐう)、今宮(いまみや)、山田別所(べっしょ)、若王子(にゃくおうじ)宮などの存在したことが知られる。南北朝内乱を経て、直時の孫直経(なおつね)は惣領として三入庄に定着し、国人(こくじん)領主として支配を展開していった。

[鈴木哲雄]

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