滝谷村(読み)たきだにむら

日本歴史地名大系 「滝谷村」の解説

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]三国町滝谷・たて滝本たきもと

九頭竜くずりゆう川の河口に近く、三国湊の西北方に隣接する。古くは滝谷たきだん寺門前と称したようで、天文一三年(一五四四)の門前百姓申状(滝谷寺文書)や、弘治二年(一五五六)の朝倉四奉行連署状(同文書)には「門前百姓」と記されている。前記門前百姓申状中には、「門前」を代表する五人百姓が連署している。天正八年(一五八〇)の教如書状(福円寺文書)の宛先一一ヵ村中に「竹たに」がみえ、当村をさすと思われる。慶長三年(一五九八)の滝谷神明宮社地免状(滝谷寺文書)には「滝谷村」と明記され、同年に作られた検地帳の末尾部分を集めた越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば総石高五一九・一三二石で田方一五町、畑方一六町四畝余。

結城秀康の越前入部により、当村は秀康の重臣今村盛次の知行地となったが、盛次は慶長七年「滝谷之内、出村罷越候者ハ三年無役、自前々之者ハ当年中上方ノ夫役令免許者也」(滝谷寺文書)と命じて、門前百姓が出村(九頭竜川河岸)へ移住することを奨励している。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]新発田市滝谷

赤谷あかだに村の東、加治かじ川の上流飯豊いいで川沿いの山中に位置し、北部に滝谷新田の集落がある。北部の要害ようがい(二八七メートル)の山頂には笠菅かさすげ城跡がある。「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)九月二八日条に「城四郎永用(長茂)越後国小河庄赤谷城郭、剰奉妙見大菩薩、奉詛源家之由有其聞」とみえ、妙見を祀って源氏を呪詛したのは赤谷の大檀原おおたんばらの地と伝える。また当村は建仁(一二〇一―〇四)頃、落ちのびた城長茂の家臣らが開拓したという伝えもある。笠菅城は戦国期には会津の蘆名氏の城であったが、小城であるため天正一五年(一五八七)上杉氏との合戦を前に、城将小田切氏は急遽赤谷のせきヶ峰に要害を築いたという。

滝谷村
たきやむら

[現在地名]三島町滝谷

中野なかの(現柳津町)の南一六町にあり、伊北いほう街道の駅所で、古くは山内氏の居城岩谷がんこく城の城下町でもあった。交通の要衝で、村内で小野川おのがわ通の外、大峯おおみね(現柳津町)を経て軽井沢かるいざわ銀山(現同上)に至る道と檜原ひのはら村を経て西方にしかた村に至る道を分岐し、郷頭居館前に制札場が設けられていた。村の西を滝谷川が北流する。「異本塔寺長帳」によれば、弘治元年(一五五五)の大地震により「滝谷邑堂岩三分二崩」とある。同書永禄元年(一五五八)条には横田中丸よこたなかまる(現金山町)城主山内俊清の次男俊政が弟の俊範と相謀って、蘆名盛氏の所領滝谷村を襲い岩谷城を攻めて押領したと記される。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]日原町滝谷

ささとう村の北東、三子みつご(七九九メートル)の北側に位置する滝谷川流域の村。村の北側を匹見ひきみ川が流れ、対岸は西長沢にしながさわ(現益田市)美濃郡に属する。集落は本溢ほんえき稗田ひえだ小滝こだき大山谷おおやまだん河平かわひらせきはらにある。慶長七年(一六〇二)の検地高一一五石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一九二石余、田一六町一反余・畑一三町六反余(「検地帳」同書)。明治四年(一八七一)の総高二〇三石余・反別三一町二反余、家数四五(本百姓三七・下作七など)・人数二〇一、牛三二、大元おおもと社、米蔵一、鉄砲二五、紙漉舟三五(万手鑑)。寛永一三年(一六三六)当村は津和野藩より匹見川の漁業権を認められ、鮎関については対岸の西長沢村と取決めがなされていた。

滝谷村
たきやむら

[現在地名]刈羽村滝谷

寺尾てらお村の北東。南は西元寺さいげんじ村、東は和田わだ(現西山町)。集落は刈羽砂丘の東麓にある。正保国絵図に高二四九石余。天和三年(一六八三)の検地帳(宝蔵寺蔵)には「苅羽郡野崎保滝谷村」と記す。反別は田二八町八反余・畑屋敷二町九反余・山一〇町四反余。池が二ヵ所ある。屋敷数二七。集落の西方の丘陵、標高約一〇〇メートルの位置に滝谷城跡がある。

滝谷村
たきやむら

[現在地名]長岡市滝谷町

金倉かなぐら山北西の裾にある。西は蛇山へびやま村続き四ッ塚よつづかに往来路があって三国街道(現国道一七号)に接続する。天正村名考(温古之栞)に「滝だに三十八軒、山の口十二軒」と伝え、「滝だに」は滝谷であり、「山の口」は滝谷のうちとされる。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高九四石九斗余。正保国絵図に「滝屋村」とあり、高一〇八石余。元禄郷帳では知行目録と同高。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]羽咋市滝谷町

柴垣しばがき村の北、眉丈びじよう山北麓傾斜地と日本海に面した海浜に立地。元和七年(一六二一)の前田利長判物(加賀藩史料)に当地妙成みようじよう寺について「柴垣之内滝谷寺」とある。江戸時代初めは柴垣村の枝村(「公務当用記」加藤文書)。寛永二〇年(一六四三)加賀藩四代藩主前田光高が妙成寺に寺領を寄進して以後、村立てされたという(能登志徴)。しかし正保郷帳には村名はみえず、村御印も出されていない。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高一二一石余、すべて妙成寺領、家数二三(うち頭振一九)・人数二〇一、馬二四、稼は布・苧・木綿・紬かな、小物成は山役銀一八匁余、社一・寺八。

滝谷村
たきやむら

[現在地名]塩沢町滝谷

長崎ながさき村の西、のぼり川左岸の山地に立地。北は大木六おおきろく村、南は早川はやかわ村枝村一之沢いちのさわ、西は山地。一之沢北東の登川沿いに枝村沢口さわぐちがある。支集落神字かんじも本村東の登川沿いにある。神字はかつては欠地かけじとよんだと伝え、川欠けにちなむ。また「かっじ」と発音する場合は沢から立ち上がった峰を意味している。正保国絵図に「滝屋村」とあり、高一〇八石余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では高五七石七斗余で、うち新田は一〇石一斗余。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]吉永町多麻たま

八塔寺はつとうじ川最上流の谷間にある。西へ登ると、八塔寺村、南は下畑しもはた村、東は東畑ひがしはた村。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に八塔寺と肩書して村名がみえ、物成三九石余、夫米二石余。寛永備前国絵図によれば高四七石余。「備陽記」では田畑五町五反余、家数一三・人数八一。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高七三石余で蔵入。二口高六三石余・残高五三石余、反別田二町六反余・畑二町八反余、家数二六、うちそら八・西谷にしだに六・大たわ三・下滝谷九、檀家は八塔寺村の八塔寺明王院二三・同宝寿ほうじゆ院三、人数一〇七(うち鍛冶一)、牛八、猟師鉄砲八、宮二(滝大明神・山神)、社家二(人数一二)、辻堂二、池四、山一七二町余、藪一二歩(蔵入)飯盛いいもり山に古城跡がある。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]室生村大字滝谷

竜口りゆうぐち村の西方に所在する谷間村落。慶長郷帳にみる村高六三・四石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。万治二年(一六五九)旗本織田長政(交代寄合)領となる。

文久三年(一八六三)滝谷村や砥取ととり村・竜口村・西谷にしたに村の領主織田宮内(旗本)は陣屋福知ふくち(現榛原町)に家臣秋元健三郎を派遣、御用金の名目で四ヵ村の領下にある周囲三尺以上の杉・檜の皆伐を命じた。耕地に乏しく樵夫として生計を立てていた住民の愁訴も聞き入れられないのを知った日下志八十次郎(当時一九歳)は福知陣屋で熟睡中の秋元健三郎を刺殺、やがて事が露顕し、共謀の疑いで、東四良左衛門・北森伊兵衛(以上滝谷村)、丸上文蔵・西峯平四郎らが捕らえられ南都の獄舎につながれた。

滝谷村
たきやむら

[現在地名]出雲崎町滝谷

藤巻ふじまき村・柿木かきのき村の南、西・南は神条かみじよう村、東は吉川よしかわ村。永享二年(一四三〇)二月二七日の室町将軍家(足利義教)御教書(菊大路文書)乙面おとも保内として「中条藤牧分竹屋内免金鉢名」とある「竹屋」が当地と思われる。なお滝谷薬師堂の鰐口(滝谷薬師保存会蔵)には応永三三年(一四二六)一一月日の紀銘で「乙面保下条 宗勝寺鰐口」と刻される。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]小浜市中井なかい 滝谷

みなみ川左岸、西の山が極度に迫る狭小な地に集落がある。東は南川を挟んで口田縄くちだの村。「若州良民伝」に「遠敷郡下中郡名田庄滝谷村といへるは、むかし小野駒之助といへる人の居を構へし所なり」とあり、当地を小野おのと称したと記す。年不詳一〇月二日付後光厳院綸旨(大徳寺文書)に「蓮華王院領若狭国名田庄惣下司職、并小野村事」とあり、この小野村は当地のことかもしれない。

滝谷村
たきたにむら

[現在地名]八尾町滝谷

夏前なつまい村の南方、大長谷おおながたに川上流右岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では切詰きりづめ村の一五町ほど北にある枝村新田としてみえ、高八石余。天保一三年(一八四二)地味が悪いため他の三村とともに村仕法米扱いとされた(「御用諸事留帳」岡崎家文書)

滝谷村
たきやむら

[現在地名]宮川村滝谷

神滝こうたき村の西にあり、村域の南部を宮川が東に流れる。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「三瀬谷之内滝屋・神滝・小滝村」と記される。元禄郷帳も「滝屋村」と記し、枝郷として平野新田・小又新田を記す。西の大杉谷おおすぎだにに接し険難な山道も多く、「五鈴遺響」は「樵夫民居往還ス」と伝える。

滝谷村
たきだにむら

[現在地名]花園村梁瀬やなせ

有田川上流左岸に位置し、有田川の支流滝谷川に沿う山間の村。北は簗瀬やなせ村。天保郷帳に「古者簗瀬村之内」とみえ、中世は高野山領花園庄簗瀬村の一部であったと思われる。近世も高野山領で、同帳によると村高二七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報