デジタル大辞泉
「三国峠」の意味・読み・例文・類語
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みくに‐とうげ‥たうげ【三国峠】
- 新潟県と群馬県との境にある三国街道の峠。三国山脈を越える難所として知られた。標高一二四四メートル。三坂峠。
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三国峠
みくにとうげ
新治村と新潟県南魚沼郡湯沢町との境にある三国街道の峠で、三国山(一六三六・四メートル)のやや南方尾根に位置する。三国街道は現新治村域に入るとほぼ赤谷川沿いに北西行し、赤谷湖の辺りから赤谷川の支流西川沿いに西行、やがて北折して峠に至る。越後側の最初の宿は浅貝(現湯沢町)。峠の利用は古く、群馬県と新潟県の魚野川流域にある古墳の類似性から、五世紀頃から交通があったと推定されている。三国の称は、峠が上野・越後・信濃三国の接点に位置すると理解されていたため生じたものであろうが、近世以降の三国境は三国峠よりかなり西方の白砂山(二一三九・七メートル)である。峠の頂上には三国の一宮を祀る御阪三社神社(三国三社大明神)があり、同社の天和二年(一六八二)の社領安堵願(長谷川文書)に、「彼所越後・信濃・上野三ケ国之境目ニ而、三坂峠と申候」とあり、元文三年(一七三八)の三国三社権現縁起(岡村文書)にも三坂峠とある。古くに都へ通ずる官道の峠を「みさか」(御坂・三坂)とよんだとする説があり、それに従えば三坂峠は越後側からよんだ称で、古代から重要な役割を担っていたとみることができる。
三国峠
みくにとうげ
湯沢町と群馬県利根郡新治村との境にある。三国山(一六三六・四メートル)のやや南方尾根に位置する。頂上に弥彦社・諏訪社・赤城社のそれぞれ越後国・信濃国・上野国の一宮を祀る三阪神社がある。三国街道(現国道一七号)は魚野川に並行して走り、清津川水系へと移って遡上し、三俣・二居・浅貝と継いで三国峠越で永井(現新治村)へ至る。峠の利用は古く、群馬県と魚野川流域にある古墳の類似性から、五世紀頃から交通があったと推定される。文明一八年(一四八六)六月、京都常光院の尭恵は「北国紀行」に「かくて重れる山、連なれる道を過行程、曠絶無人といふべし、越後・信濃・上野の界三国峠といへるを越し侍るに、諏訪のふしおがみあり」と記し、柏崎から上野国白井(現群馬県北群馬郡子持村)へ至る途中この峠を通過している。
三国峠
みくにとうげ
現在の大滝村・群馬県多野郡上野村・長野県南佐久郡川上村の三ヵ村の境界付近に位置した標高一八〇〇メートルの峠。峠近くの三国山(一八二八メートル)ともども、かつては武蔵・上野・信濃三国の境であったために峠名・山名が生じた。現在はほとんど廃道化し、昭和四一年(一九六六)に大滝村と川上村を結ぶ中津川林道が開通してからは、同林道が尾根を越える地点(旧三国峠から南へ一キロほど、標高一七五四メートル)を三国峠とよぶようになっている。
三国峠
みくにとうげ
[現在地名]基山町大字小倉
長崎街道は、肥前国田代宿(現鳥栖市)と筑前国原田宿(現福岡県筑紫野市)との間で基山の山脚と国境の丘陵とがなす鞍部を通る。ここを三国峠という。
肥前・筑前・筑後三国の境界点は、街道が肥前・筑前両国境を通過する所から南東三〇〇メートルの丘陵上(標高九六メートル)にある。もとは土盛りの割塚があったが文化二年(一八〇五)三領間の合意で三国境石を建てた。
三国峠
みくにとうげ
三重町と南海部郡宇目町・本匠村の境にある。標高六六四・三メートル。峠の名は臼杵・岡・佐伯の各藩領境にあることから付けられたという(弘化二年「高千穂採薬記」)。江戸時代には三重市村(現三重町)から楢野木村(現宇目町)へと当峠を越えて日向道が通じていた。両村間の距離は四里もしくは四里半(「豊後千歳役所諸定式控」内藤家文書)、難所であったとされる。「高千穂採薬記」には三重市村から内山観音(現三重町)を経ると「山路嶮岨」となり、「羊腸ヲ登リ原野ニ出レハ、路山背ニ在リ。実ニ馬背ノ如ク、左右ノ谷皆数十尋、(中略)嶺頭ニ登レハ、石ヲ建テヽ御書墓ノ三字ヲ刻ス」と記される。
三国峠
みくにとうげ
上川町の南東端、三国山の西側にある。峠の標高は一一三九メートルで、道内で最も高い。峠下を国道二七三号の三国トンネル(延長一一五二メートル)が貫通し、上川町と十勝支庁管内の河東郡上士幌町を結ぶ。上川地方から三国峠を越えて十勝地方へ抜ける十勝―三股線の開削計画は、明治後期から当時の愛別村村長太田龍太郎らが企画していた。明治四四年(一九一一)には鉄道建設のための踏査・測量も行われた(上川町史)。
三国峠
みくにとうげ
標高一八〇〇メートル。上州・武州・信州の三国の国境にあることからの命名という。以前は日本基山の範囲に含まれていたが、江戸時代は樹木少なく秋山村などの秣刈場となっていた。
天保九年(一八三八)の秋山村差出明細帳(川上剛太郎氏蔵)によれば、「三国山 右者武州秩父郡中津川村附御林境御林内中津川江之歩行往来道御座候得共嶮岨岩間ニ而牛馬通路無御座候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
三国峠 (みくにとうげ)
群馬県北部,利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の境にある峠。標高1244m。三国山地に属する三国山の南南西の鞍部にあり,旧三国街道が通る。峠には三国街道の守護神の三国権現をまつった三国神社があり,南下方には法師温泉がある。近世には越後5大名の参勤交代や佐渡奉行の通路となり,米や海産物が運ばれた。明治の半ばまでは人馬の往来が激しく,清水峠が開かれてからもよく利用されていたが,1931年上越線が開通してからは利用者が激減した。59年に峠の下をトンネルが開通し,61年に国道17号線として整備されて以来,貨物自動車やスキー客の自動車往来が増加した。みなかみ町の永井から戊辰戦争の三国古戦場を経て三国峠に達する旧三国街道は昔の面影をよく残し,ハイカーも増えている。
執筆者:有末 武夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
三国峠
みくにとうげ
新潟県南東部の湯沢町と群馬県北部のみなかみ町との境にある峠。三国山脈越えの峠で,利根川水系と信濃川水系の分水嶺にあたる。標高 1244m。三国街道上の最高点で三国権現がまつられている。古来交通の要地で,上杉謙信もいくたびかこの峠を越えて関東へ攻め込んでいる。上州側に吹路と永井,越後側に浅貝,二居,三俣の峠下集落が発達した。 1931年の上越線開通とともに重要性は減少したが,1961年国道 17号線の三国トンネルが開通したことによって,再び自動車交通の要地として復活。冬季は積雪が多く,交通の難所。北側一帯に苗場国際スキー場がある。付近は上信越高原国立公園に属する。
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三国峠(群馬・新潟県境)
みくにとうげ
群馬と新潟の県境三国山脈にある峠。標高1244メートル。旧三国街道の通路で、南麓(なんろく)に永井宿、北麓に浅貝(あさかい)宿があり、長岡、新発田(しばた)など五大名と佐渡奉行(ぶぎょう)の通行および越後(えちご)米、海産物などの輸送、また上杉謙信も兵を率いて通過、戊辰(ぼしん)戦争の戦闘も行われた。峠には三国街道の守護神である三国権現(ごんげん)(上野(こうずけ)の赤城(あかぎ)明神、越後の弥彦(やひこ)明神、信濃(しなの)の諏訪(すわ)明神)を祀(まつ)る祠(ほこら)と鳥居があり、眺望はたいへんよい。信越本線、ついで上越線開通後峠の通行者は激減したが、1959年(昭和34)峠の下を三国トンネルが貫通し、国道17号として交通量がきわめて多い。トンネル入口より登ると約20分で峠に達し、廃道化した旧三国街道のおもかげをみることができる。
[村木定雄]
三国峠(大分県)
みくにとうげ
大分県南部、豊後大野市(ぶんごおおのし)と佐伯市(さいきし)の間、国道326号にある峠。標高約600メートル。1877年(明治10)西南戦争の古戦場。眺望よく、北麓(ほくろく)の内山観音(うちやまかんのん)までの8キロメートルのサクラ並木道沿線地区とともに、祖母傾国定公園(そぼかたむきこくていこうえん)の一部となる。臼杵(うすき)・竹田(たけた)・佐伯三藩領の境にあったためこの名を得たという。
[兼子俊一]
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世界大百科事典(旧版)内の三国峠の言及
【峠】より
…入山峠はその後一時廃れたが最近になって自動車専用の碓氷バイパスが通じて復活した。三国峠(1244m)は関東から新潟,佐渡をつなぐ三国街道の通路にあたり,とくに近世に往来が盛んであったが,1931年国鉄(現JR)上越線が全通して以来衰えていた。しかし59年峠の直下に三国トンネルが開通し,車道(国道17号線)が通じて再び活気を取り戻している。…
※「三国峠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」