三土忠造
みつちちゅうぞう
(1871―1948)
大正・昭和期の政治家。明治4年6月25日香川県に生まれる。香川県立師範学校から高等師範学校(東京)に進み、1897年(明治30)卒業。のちケンブリッジ大学に学び、1906年(明治39)帰国、東京高等師範学校教授となる。1908年辞職し、香川県から衆議院議員に当選、政友会に所属する。1921年(大正10)高橋是清(これきよ)内閣の書記官長、ついで田中義一(ぎいち)内閣の文部大臣、大蔵大臣となる。浜口雄幸(おさち)、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)(第二次)内閣下では、井上準之助(じゅんのすけ)蔵相の金解禁政策に対して反対し、歴史的な論戦を展開。犬養毅(いぬかいつよし)内閣では逓信(ていしん)大臣として入閣、五・一五事件後の斎藤実(まこと)内閣でも鉄道大臣となった。1934年(昭和9)帝人事件で偽証罪に問われ起訴されたが、結局無罪。1940年枢密顧問官に親任された。戦後、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の内務大臣兼運輸大臣となり、また貴族院議員に勅選された。昭和23年4月1日死去。
[由井正臣]
『広瀬英太郎編『三土忠造』(1962・三土先生彰徳会)』
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三土忠造 (みつちちゅうぞう)
生没年:1871-1948(明治4-昭和23)
政治家。香川県出身。宮脇清吉の次男に生まれ,のち三土幸太郎の養子となる。東京高等師範学校卒業。イギリスに留学後高師教授,《東京日日新聞》記者,編集長等を経て,1908年香川県から衆議院議員に当選し,以来連続当選11回。立憲政友会幹事,大蔵省参事官,内閣書記官長,農商務次官を経て田中義一内閣の文相・蔵相,犬養毅内閣の逓相,斎藤実内閣の鉄道相となる。辞任後帝人事件で証言を拒否して偽証罪に問われたが,のちに無罪となった。40年枢密顧問官に任ぜられ,敗戦後にも幣原喜重郎内閣の内務兼運輸相に就任した。
執筆者:金原 左門
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三土忠造
みつちちゅうぞう
[生]明治4(1871).6.25. 香川
[没]1948.4.1. 東京
政治家。 1897年東京高等師範学校卒業後,31歳のとき渡英,ケンブリッジ大学に留学した。帰国後東京外国語学校長などを歴任,1908年代議士となり,以来当選 11回。 21年高橋内閣の書記官長,27年田中内閣の文相,蔵相,31年犬養内閣の逓相,斎藤内閣の鉄道相を歴任した。 34年の帝人事件では偽証罪に問われたが無罪。第2次世界大戦後政界に復帰,45年幣原内閣の内相兼運輸相となった。伝記に広瀬英太郎編『三土忠造』がある。
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三土忠造 みつち-ちゅうぞう
1871-1948 明治-昭和時代の政治家。
明治4年6月25日生まれ。母校東京高師の教授をへて明治41年衆議院議員(当選11回,政友会)。財政通で高橋是清(これきよ)の補佐役となり田中義一,犬養毅(いぬかい-つよし),斎藤実(まこと)の各内閣に入閣した。昭和21年幣原(しではら)内閣の内相兼運輸相,貴族院議員。昭和23年4月1日死去。78歳。讃岐(さぬき)(香川県)出身。旧姓は宮脇。
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