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斎藤実内閣 さいとうまことないかく

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百科事典マイペディアの解説

斎藤実内閣【さいとうまことないかく】

1932年5月26日―1934年7月8日。五・一五事件後,軍部の圧力で中間的挙国一致内閣として成立。内田康哉外相の焦土外交で1932年満州国承認,日満議定書調印。
→関連項目岡田啓介内閣挙国一致内閣神兵隊事件満州事変

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

斎藤実内閣
さいとうまことないかく

(1932.5.26~1934.7.8 昭和7~9)
1932年の五・一五事件で犬養毅(いぬかいつよし)政友会内閣が瓦解(がかい)したあとに成立した「挙国一致内閣」。五・一五事件後、元老(げんろう)西園寺公望(さいおんじきんもち)は政党内閣の成立に強く反対する軍部の威圧の下で、後継首班に穏健派とみられた前朝鮮総督斎藤実を推し、政治的危機の乗り切りを図った。斎藤は政友会、民政党に入閣を要請し、軍部、官僚、政党の各勢力を均衡させた「挙国一致内閣」を組織、対外的にはまず「満州国」承認問題の処理に直面することになった。満鉄総裁から外務大臣に就任した内田康哉(うちだやすや)は満蒙(まんもう)問題に対する積極政策を推進し「焦土外交」とよばれた。1932年9月15日日満議定書の調印が行われ、日本は「満州国」を正式に承認した。この間にも関東軍は熱河(ねっか)省地方への支配拡大の準備を進めた。1933年1月山海関(さんかいかん)での日中両軍の衝突を機に同地を占領、2月熱河作戦を開始、4月には長城を越えて侵攻するに至った。5月日中両軍の間に塘沽(タンクー)停戦協定が成立し、長城線以南に非武装地帯を設定した。この「満州国」の承認、熱河作戦は、日本の対外関係を一気に悪化させていった。
 1932年11月国際連盟において、10月のリットン報告書の公表を受けて、満州問題に関する討議が再開された。その結果1933年2月総会で中国の満州統治権の承認、日本の撤兵を求める勧告が採択されるや、日本は3月国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を進んでいった。他方、斎藤内閣は国内において、窮乏農村の匡救(きょうきゅう)を大きな課題としていた。そのため米価対策、負債整理対策、時局匡救事業などを実施したが、十分な成果をあげることなく、もっぱら農村経済更生運動を展開することによって農民の自力更生を訴えていった。
 斎藤内閣の成立によって政権を逸した政友会は、次期政権獲得をねらって倒閣に動いたが、かえって政党に対する信用を失わせ、政党勢力の後退を招いてしまった。これにかわって官僚勢力が進出し、その地位はしだいに強化されていった。斎藤内閣は、五相(首相、外務、陸軍、海軍、大蔵)会議を開催するなど、重要国策の決定を政党を除外して行った。大蔵省幹部を巻き込んだ大疑獄事件帝人事件のために、1934年7月3日総辞職を余儀なくされ、7月8日岡田啓介(おかだけいすけ)内閣が成立した。[芳井研一]

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