大正・昭和期の官僚、政治家。号は克堂。慶応(けいおう)2年2月5日松江藩士奥村仙三郎の次男として生まれ、叔父若槻敬の養子となる。1892年(明治25)東京帝国大学仏法科卒業、大蔵省に入る。愛媛県収税長、大蔵省主税局内国税課長、主税局長を経て、1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣、ついで1908年第二次桂太郎(かつらたろう)内閣の大蔵次官に就任。1911年大蔵次官を辞し貴族院の勅選議員となった。第三次桂内閣、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相にも就任。この間立憲同志会、憲政会の創立に加わった。1924年(大正13)護憲三派内閣の内相となり、普通選挙法、治安維持法を成立させた。1926年1月加藤高明(かとうたかあき)首相の病死で憲政会総裁を継承、内閣を組織した(第一次若槻内閣)が、1927年(昭和2)枢密院が台湾銀行救済の緊急勅令案を否決したため総辞職した。1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のもとで、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権を務め、難航のすえに条約を締結した。1931年4月浜口の病状悪化のためかわって立憲民政党総裁に就任、第二次若槻内閣を組織、浜口内閣の政策を継承した。しかし満州事変の勃発(ぼっぱつ)で政策の基本とした幣原(しではら)外交、緊縮財政の破綻(はたん)は決定的となり、内相安達謙蔵(あだちけんぞう)の協力内閣運動(民政党、政友会両党による協力内閣成立を目ざした運動)によって総辞職を余儀なくさせられた。
1934年民政党総裁を辞任、以後は重臣として岡田啓介(おかだけいすけ)内閣以降の後継首相指名、重要国策の審議に加わった。戦争に対しては一貫して批判的な立場を表明し続けたが、政界への影響力をもつことはできなかった。太平洋戦争末期には近衛文麿(このえふみまろ)、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、岡田啓介らと東条英機(とうじょうひでき)退陣を画策、小磯国昭(こいそくにあき)内閣を成立させた。しかし戦争を終結させるための具体的な行動をとることなく終戦を迎えた。昭和24年11月20日死去。
[芳井研一]
『若槻礼次郎著『古風庵回顧録』(1975・読売新聞社)』▽『青木得三著、細川隆元監修『日本宰相列伝11 若槻礼次郎/浜口雄幸』(1986・時事通信社)』▽『豊田穣著『宰相・若槻礼次郎 ロンドン軍縮会議首席全権』(1990・講談社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書16 若槻礼次郎』(2006・ゆまに書房)』
政治家。松江藩の足軽奥村家に生まれ,叔父の若槻敬の養子となる。1884年上京し,司法省法学校から東京帝国大学へすすみ,仏法科を首席で卒業した。大蔵省に入り,愛媛県収税長,大蔵省内国税課長,主税局長を歴任し,1906年第1次西園寺公望内閣の阪谷芳郎蔵相のもとで大蔵次官となった。07年政府特派財政委員としてロンドン,パリに駐在し,08年第2次桂太郎内閣の桂兼任蔵相のもとで次官に就任,11年貴族院議員に勅選された。桂の信頼は厚く,12年第3次桂内閣では蔵相となり,立憲同志会の創立に参加,14年第2次大隈重信内閣でふたたび蔵相に就任した。加藤高明総裁とともに憲政会の〈苦節10年〉を支え,24年護憲三派内閣の内相となり,25年には普通選挙法,治安維持法を成立させた。第2次加藤高明内閣の内相に留任し,26年1月加藤首相病気のため首相代理となり,ついで第1次内閣を組閣した。議会では朴烈事件,松島遊廓疑獄を野党に攻撃され,27年初頭,内閣弾劾案を提出されたが,3党首(若槻,田中義一,床次(とこなみ)竹二郎)会談を開いて切り抜け,政友本党との憲本連盟を固めた。おりから北伐に直面して幣原外交の〈軟弱〉を非難され,さらに金融恐慌がおこり,台湾銀行救済の緊急勅令案を枢密院で否決されて,内閣総辞職した。30年ロンドン海軍軍縮会議首席全権となり同条約に調印した。同年11月狙撃された浜口雄幸首相の病状が悪化したため,31年4月立憲民政党総裁を引き受け,第2次内閣を組閣し,満蒙問題の解決と行財政整理をめざしたが,9月柳条湖事件がおこり,不拡大方針を唱えたものの,満州事変の拡大の追認を余儀なくされた。十月事件に大きな衝撃をうけ,安達謙蔵内相の協力内閣運動により閣内不統一に陥り,12月内閣総辞職した。34年末民政党総裁を辞任,その後重臣として東条英機内閣の組閣や日米開戦に反対する意見を述べ,反東条運動に連なった。極東国際軍事裁判では証人として出廷した。
執筆者:江口 圭一
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大正・昭和期の政治家,男爵 首相;民政党総裁;貴院議員(勅選)。
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1866.2.5~1949.11.20
大正・昭和期の政治家。出雲国生れ。東大卒。大蔵次官をへて貴族院議員となり,1912年(大正元)第3次桂内閣の蔵相。立憲同志会に入党。第2次大隈内閣の蔵相。加藤高明の護憲三派内閣では内相として普通選挙法と治安維持法を成立させた。26年(昭和元)憲政会内閣を組織するが金融恐慌が発生し,台湾銀行救済緊急勅令案を枢密院に否決されて総辞職。30年のロンドン海軍軍縮会議では首席全権として条約に調印。浜口内閣総辞職後,立憲民政党総裁として民政党内閣を引き継いだが,満州事変の対応に苦慮し,安達謙蔵内相による協力内閣運動に揺さぶられて総辞職。太平洋戦争期には穏健派の重臣として活動。
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…所属代議士は198名。総裁加藤高明を若槻礼次郎,浜口雄幸,安達謙蔵の3幹部が補佐する体制は,終始変わらなかった。つねに政党内閣主義の旗印を掲げ,藩閥官僚勢力と対立し,元老に忌まれて〈苦節十年〉の間政権から遠ざけられた。…
…台銀の鈴木商店系事業に対する貸出しは26年末には全貸出しの7割にものぼっている。27年3月に始まった金融恐慌の中で,台湾銀行の危機が伝えられると,時の若槻礼次郎内閣は台銀救済の緊急勅令案を準備した。しかし,若槻の対中国協調外交に不満を持つ伊東巳代治らにより枢密院で勅令案が否決され,4月18日に台銀の内地および海外支店は休業に追い込まれた。…
…党首,党則,政策などの決定は憲政会のイニシアティブのもとに行われた。 民政党の結党式は,東京の上野精養軒で,1000余名の来会者をえて行われ,党総裁に浜口雄幸,顧問に前憲政会総裁若槻礼次郎,政友本党総裁床次(とこなみ)竹二郎,および山本達雄,武富時敏が就任し,富田幸次郎,町田忠治,松田源治,安達謙蔵,斎藤隆夫ら10人が総務となった。そして,党の政綱に,国民の総意を帝国議会に反映し,議会中心の政治を徹底すること,国家の力により生産を活発にして分配を公正にし,社会不安の禍根を除去すること,国際正義を国交のうえに貫き,人種平等,資源公開の原則を拡充していくこと,品性を陶冶(とうや)し,学習の機会を均等にし,教育の実際化を期すこと,立法・行政・地方自治の陋習(ろうしゆう)を打破し,改造の実現を期すことを掲げた。…
※「若槻礼次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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