三里塚闘争(読み)サンリヅカトウソウ

デジタル大辞泉 「三里塚闘争」の意味・読み・例文・類語

さんりづか‐とうそう〔‐トウサウ〕【三里塚闘争】

東京国際空港(現成田国際空港建設に対する反対闘争。昭和41(1966)年、新たな国際空港を千葉県成田市三里塚に建設する閣議決定を受け、地元農民らが反対運動を展開全学連などの学生が合流して激化した。成田闘争

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三里塚闘争」の意味・わかりやすい解説

三里塚闘争
さんりづかとうそう

千葉県成田市三里塚・芝山(しばやま)町農民を中心とする新東京国際空港(現成田国際空港)建設反対闘争。成田闘争ともよばれる。1966年(昭和41)7月4日の閣議で新国際空港を三里塚に建設することが決定するが、これに先だつ6月28日、地元農民は三里塚新国際空港反対同盟(委員長戸村一作(とむらいっさく)(1909―1979))を結成、反対運動を開始した(7月10日三里塚・芝山連合空港反対同盟に発展)。条件付き賛成派の離脱もあったが、女性、老人、青年、少年の各行動隊を結成するなど結束を固め、激しい闘争を展開する。ずさんな建設計画と、地元住民との合意や農民として生きる権利を無視した国家の強権的対応がその背景にあった。1968年初頭から三派系全学連の支援が本格化し、多数の逮捕者、負傷者を出す警察機動隊との衝突が続いた。1971年2~3月、9月の2次にわたる土地収用法による強制代執行には地下壕(ごう)を掘り、一坪買収運動を行うなどして抵抗、逮捕者は1200人を超えた。とくに第二次代執行に際しては反対派1万5300人が阻止闘争に参加、警官3人が死亡した。こうした反対のなかで、1973年3月の開港予定は無期延期となる。1977年4~5月の妨害鉄塔撤去をめぐっては2万3000人が反対集会に集まる盛り上がりをみせるなか、反対派1人がガス弾の直撃で死亡した。さらに開港直前(1978年3月)過激派によって空港管制塔が占拠、破壊されるという事件もあった。空港は1978年5月暫定開港に至るが、反対運動は継続し、41件606被告(1979年3月)に上る刑事裁判も争われた。

 しかし、1983年3月8日、反対同盟は、北原派と農民主体の大衆運動路線をとる熱田(あつた)派に分裂、さらに1987年9月、中核派との結び付きの強い北原派から、中核派との絶縁を求める小川派が分裂した。反対運動が分裂するなかで、政府は1986年から空港整備の第2期工事に着手し、「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」(成田新法。1978年5月13日公布)を適用して、反対派の拠点施設の強制撤去を進めた(~1990)。にもかかわらず、未買収用地の強制収用には限界があり、手詰まりとなった政府側と直接対話の場を求める熱田派両者が接点を求め始める。

 1990年(平成2)11月、熱田派が加わった地域振興連絡協議会が発足、1991年11月より東京大学名誉教授の隅谷三喜男(すみやみきお)(1916―2003)ら学識経験者を調停役とし、運輸省(当時)と熱田派が対話を行う成田空港問題シンポジウムがスタートした。シンポジウムは1993年5月まで15回開催され、まず未買収地の収用裁決申請の取下げが確認され、その後さらに同年9月から成田空港問題円卓会議での話し合いが1994年10月まで12回にわたり続けられた。円卓会議の結果、未完成の2本の滑走路のうち、横風用滑走路についての建設凍結が確認された。成田空港をめぐる対立の構造は、こうして1990年代前半に大きく変化した。その後、平行滑走路建設をめぐる対立は解消されていないなか、1999年12月当初予定より短縮された暫定平行滑走路の建設が着工され、2001年10月に完成、2002年4月より供用開始された。

[荒川章二]

『東京新聞千葉支局編『ドキュメント成田空港』(1978・東京新聞出版局)』『技術と人間編集部編『反成田空港論』(1979・技術と人間)』『永井満著『三里塚と共に三十年――淡路島住民の成田・関西空港闘争』(2000・御茶の水書房)』『朝日ジャーナル編集部編『三里塚』(三一新書)』

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