上八木村(読み)かみやぎむら

日本歴史地名大系 「上八木村」の解説

上八木村
かみやぎむら

[現在地名]三原町八木養宜上やぎようぎかみ

現三原町域北東端に位置し、東は徳原とくはら(現緑町)、西は中八木村。北・東・南部は山地で、北部を養宜川が北西流し、西部を成相なりあい川が北流する。やま本村ほんむら・東・南・北の五傍示がある(味地草)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「上八木」四〇七石二斗がみえ、羽柴秀吉の蔵入地となっていた。正保国絵図では高六〇一石余、天保郷帳では高八二七石余。反別戸数取調書によると反別七二町四反余、高九九五石余、うち蔵入高九九四石余。


上八木村
うばやぎむら

[現在地名]足助町上八木

標高九八五・二メートルのはずヶ岳の北西に位置する。東から東南にかけて標高九〇〇メートル前後の山が連なり、南は川面かわおもて村、西は上垣内かみがいと村・千田せんだ村、北は五反田ごたんだ村・明川あすがわ村に接する。村内を足助川の支流菅生すごう川に注ぐ上八木川と、足助川の上流が西南に向かって流れ、集落は上八木川に沿う谷地形に本郷、足助川に沿う谷地形に枝郷山中の切やまなかのきりがある。縄文時代前期・中期・後期の中平なかひら遺跡と時期不詳のさか遺跡が、足助川右岸にある。いずれも南面した山麓の傾斜地。伊那いな街道沿いの上垣内村から、本郷・山中の切、大多賀おおたが村を経て現北設楽きたしたら稲武いなぶ町へ通ずる山道は、中世の重要路線であった。村内旧道沿いの山頂に、せん城跡あしいり城跡・さか城跡の三城跡がある。


上八木村
かみやぎむら

[現在地名]八鹿町八木

今滝寺こんりゆうじ村の南東、八木川の中流域に位置し、西は三宅みやけ(現関宮町)、東は中八木村。八木川沿いに山陰道が横断、当地で山陰道から南へ分岐し、琴引ことびき峠を越えて宮垣みやがき(現大屋町)に至る道が通じていた。集落は八木川の北岸に発達し、北西の尾根上に八木城跡がある。中八木村・下八木村とともに古代養父やぶ養耆やぎ(和名抄)の遺称地で、八木三ヵ村ともに中世には八木庄として推移した。当村の集落は東隣の中八木村、さらにその東隣の下八木村の集落と連なって町場を形成しており、この一連の街区は戦国末期に城主八木氏によって八木城城下町として建設されたと考えられる。


上八木村
かみやぎむら

[現在地名]びわ町上八木

下八木村の北東に位置。天正二年(一五七四)二月一〇日、大浜おおはまの大工松本新介が富田とんだの大工兵衛太郎に宛てた大工職の譲状(阿部文書)に「上八木」とみえる。慶長二年(一五九七)四月二〇日の石田三成麦掟(岩崎文書)はこの夏より諸国の麦年貢が田方三分一納めになったことを当村百姓中に通達したもので、田麦の場合はその田の「麦毛のうへニて、みおよび、三分壱きう人二納をき、すなはち其地下にくらに入あつけおき可申事」などとある。浅井郡検地帳(東浅井郡志)による天正検地高三五六石余で慶長七年検地高は三六八石余。


上八木村
かみやぎむら

[現在地名]秦荘町軽野かるの

南蚊野みなみかの村の北にあり、北西は北八木きたやぎ村。彦根藩領北八木村の枝郷で、元禄郷帳に北八木村枝郷上八木村とあり高二一八石余。天明村高帳では北八木村のうちとして扱われるが、天保郷帳では再び独立して高付され、高二一八石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では男六〇・女五九、寺社方男三・女二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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