上大野村(読み)かみおおのむら

日本歴史地名大系 「上大野村」の解説

上大野村
かみおおのむら

[現在地名]総和町上大野

長井戸ながいど(現在は水田)東枝と西枝に挟まれた南北に続く台地上に所在。北は下野国。中央と東部に平地林を有し、西を宮戸みやと川が流れる。諸川もろかわ(現三和町)から当村を経て関戸せきど村へ至る道を鎌倉街道と称する。

宮戸川上流台地の古内ふるうち遺跡、字三社裏さんじやうら地蔵堂じぞうどう遺跡、字地蔵南の地蔵遺跡などは縄文遺物を包蔵し、後者の二遺跡は古墳時代の遺跡でもある。字大松山おおまつやまの大松山古墳群では古墳三基が確認され、字本田前ほんでんまえ本田山ほんでんやまA遺跡・本田山古墳群がある。また製鉄遺跡として字弁天べんてんの弁天遺跡・本田山B遺跡が確認され、弁天遺跡では鞴送風土管が数本出土。

中世には稲宮いなみや村・下大野村とともに大野郷を形成したと考えられ、下河辺しもこうべ庄のうちで、嘉元二年(一三〇四)のものと思われる称名寺寺用配分状(金沢文庫文書)に「竹岸殿御跡」として「下川辺庄内 志摩郷 大野郷」とみえており、金沢(北条)顕実の支配地であった。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]菊川町大字上大野

東は木屋こや川を隔てて下保木しもほき村に対し、南は下大野村、西は白山しらやまの峰を越えて田部たべ村に接する。北は小日本こにつぽん平野(菊川平野)。清末藩領。

南の下大野村とともに中世の大野庄の遺称地。同庄地頭職は元徳二年(一三三〇)一〇月二八日の源義頼譲状(弘文荘待賈文書)に「義頼重代相伝之所領」の一としてみえ、このとき義頼から嫡子次郎四郎義雄に譲られた。ついで「玉英記抄」(仏事)の暦応三年(一三四〇)五月二五日に「東福寺長老士曇和尚、引率僧衆来、有観音懺法、毎月事也、以長門国大野庄寄進当寺、僧衆抃悦之間、作詩軸送之」とある。この大野庄については、文明一〇年(一四七八)八月二三日付の大内政弘の宛行状(「閥閲録」所収末武与五郎家文書)

<資料は省略されています>

とあり、大内氏の掌握するところとなっていたことが知られ、中世末期には上領かみりよう下領しもりように分れていたらしく、天文一二年(一五四三)の長門一宮住吉神社文書に「長州豊東郡大野庄上領参拾石足」とある。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]上野原町大野

野田尻のたじり村の南西、おうぎ(一一三七・八メートル)の南東麓に位置する。桂川支流谷田やつだ川水系の上流部を占め、南東は下大野村。また当村に取囲まれるような形で犬目いぬめ村が村域の中央北部に入り込んでいる。当村北東部―犬目村―当村北西部と甲州道中が通る。「甲斐国志」などによると、古くは下大野村と一村で大野村と称していたが、寛文九年(一六六九)の検地の折に二村に分立したという。しかし郷村帳類ではその後も大野村一村で高付されていた。「甲斐国志」は当村枝郷として団子坂だんござか(談合坂)矢壺やつぼ(矢坪)新田しんでん谷後やご・ヒル(日留野)大田おおだ大沢おおさわ恋塚こいづかをあげる。うち矢坪は小山田越中守信有と北条氏綱が合戦に及んだ地とされる。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]阿南市上大野町

中大野村の西に位置する。東流してきた那賀なか川が当村の南西部で北に大きく湾曲し、北端で流れを東に変える。支落として西原にしはらがある(阿波志)。「和名抄」に記載される那賀郡大野郷の遺称地とされ、中世には大野庄が成立した。慶長二年(一五九七)の分限帳に那西なさい郡上村大野とみえ、森内次知行分三五石余・渡辺九兵衛知行分一〇〇石・林次郎右衛門知行分一〇〇石・生駒次郎兵衛知行分一〇〇石が記される。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]日吉村上大野

広見ひろみ川上流の谷あいの村。北は下鍵山しもかぎやま村、西は川上かわかみ(現広見町)に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「上大野村 柴山・茅山、川有」と村名がみえる。吉田藩領。

太閤検地(天正一五年―文禄三年)の石高は一八九石九斗一升三合で、正保検地(正保二―四年)では三〇二石二斗九升七合となっている。

延宝九年(一六八一)の「吉田古記」によると当村の権現宮の大般若経の奥書に「本願主比丘司印玄透、明応七年戊午閏十月十八日」とある。この大般若経は実は五部大乗経であり、明応七年(一四九八)には権現宮が存在し、五部大乗経が奉納されていたことがわかる。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]松江市上大野町

下大野村の東に位置し、東は本宮ほんぐう山を境に岡本おかもと村・秋鹿村など。村内を大野川が南流する。郷帳類などには下大野村と併せて大野村とみえる。中世は大野庄に含まれていた。正保国絵図に大野村がみえる。「雲陽大数録」では上大野とみえ、高四一〇石。寛延四年(一七五一)の秋鹿郡西組村々万差出帳(県立図書館蔵)によると高四四八石、家数は本百姓三四・名子間脇九六、人数八一八。天明八年(一七八八)の宗門郡中人高(伊野郷土誌)では人数八五六。


上大野村
かみおおのむら

[現在地名]八代市二見下大野ふたみしもおおの

下大野村の西に立地する。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」には下大野村の小村とされている。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「国誌」に高一六七石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android