下大野村(読み)しもおおのむら

日本歴史地名大系 「下大野村」の解説

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]菊川町大字下大野

木屋こや川のつくる沖積平野を中心に左右に山地がある。北は上大野、南と西は小月おづき(現下関市)、東は吉田よしだ(現下関市)の各村に接する。村内を木屋川支流の矢井やい川が流れる。清末藩領。

上大野を含めて中世は大野庄とよばれた地で、村内の大野八幡宮は山城の石清水いわしみず八幡宮(現京都府)を神護景雲(七六七―七七〇)頃に勧請したとも伝える。

近世中期まで大野村といわれていた地が、「地下上申」で上下に分れ、下大野村の総石高は二千一一三石余、ただし田畠入交りと記され、村内の小村・小名として貞末さだすえ小路しようじ岡畠おかはた五丁分ごちようぶん宮本みやもと江本えもと・利慶・馬場ばば田中たなか・矢井・矢河内・猿田・みやさこをあげる。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]総和町下大野

関戸せきど村の南に所在。東は長井戸ながいど(現在は水田)西枝、西の一部は釈迦しやか(現在は水田)東枝、南北は台地。西部に平地林を多く有する。南北に境―間々田ままだ街道が貫通し、往古は鎌倉街道と称した。長井戸沼に臨む赤上あかんじよう遺跡は古墳時代のものと確認されている。戦国期には稲宮いなみや村・上大野村とともに大野郷を形成した(→上大野村。足利成氏が古河こが城に入る以前に簗田河内守満助が下大野と高野こうやを領有したと伝え、次代の持助の家老塚田修理が下大野に移住し、後年には帰農したという。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]上野原町大野

上大野村の南東、桂川支流谷田やつだ川や南米沢なめざわ川の流域に位置する。古くは上大野村と一村で大野村と称していたが、寛文九年(一六六九)の検地の折に二村に分立したという(甲斐国志)。しかし郷村帳類ではその後も両村を合せた大野村一村として高付されていた。文化三年(一八〇六)村絵図(都留市蔵)では、地内に東大野・西大野・花坂はなさか日向ひなた・南目沢(南米沢)などの集落が描かれている。一方、「甲斐国志」では東大野を除いた前述各集落を当村の枝郷としてあげており、近世後期には東大野が当村の本村と位置づけられていたと考えられる。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]阿南市下大野町、那賀なかうら明見みようけん

南島みなみしま村の西に位置し、北を那賀川が東流する。西は中大野村。「和名抄」に記載される那賀郡大野郷の遺称地とされ、中世には大野庄が成立した。慶長二年(一五九七)の分限帳には中大野村は大野中村、上大野村は上村大野とみえるので、単に大野と記されるのが当村とみられ、いずれも那西なさい郡に属する。大野は赤堀十右衛門知行分一〇〇石・柏木勝左衛門知行分一一二石・小南与次郎知行分五〇石・井村小兵衛知行分二三石・野々村勘十郎知行分一四二石・内田孫兵衛知行分五〇石で、野々村勘十郎知行分は那東なとう郡とされる。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]松江市大野町

東は上大野村・大垣おおがき村、西は上伊野かみいの(現平田市)、南は宍道湖、北は日本海に臨む。草野くさの川・大野川(新川)が南流して宍道湖に注ぐ。湖岸を杵築道が通る。郷帳類などには上大野村と併せて大野村とみえる。「出雲国風土記」秋鹿郡条に大野川は「源は郡家の正西一十三里なる磐門山より出で、南に流れて入海に入る」、草野川は「源は郡家の正西一十四里なる大継山より出で、南に流れて入海に入る」と記される。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]常澄村下大野

那珂川の右岸にあり、東は小泉こいずみ村。那珂川に沿って東西にみなと街道が通る。

常陸大掾伝記」によると石川家幹の八男光幹が大野氏の祖として大野に住み、鹿島大使役記抄記(石川氏文書)の正和元年(一三一二)に大野経幹、永和元年(一三七五)に大野入道法本の名がみえる。のち江戸氏・佐竹氏の支配を経て、近世は水戸藩領となる。応安元年(一三六八)の大野郷住人兼家売券写(吉田神社文書)に「常州国大野郷」とみえ、「新編常陸国誌」の上大野村西の項には「古ハ上中下大野村合テ一郷ニテ、(中略)又石川氏康暦二年ノ文書ニ、大のの郷トアリ、後分レテ三村トナリ」とある。寛永一八年(一六四一)の検地のとき三村に分れた。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]八代市二見下大野ふたみしもおおの

内野うちの村の西にある山村。集落は二見川と下大野川合流点から下大野川とその支流の河岸段丘・谷壁に点在する。「事蹟通考」によると、嘉吉二年(一四四二)相良前続が二見で犬追物興行をしたとあり、天文五年(一五三六)一一月二二日の沙弥洞然相良長国長状写(相良家文書)に「前代者度々御犬追物御興行候(中略)於芦北二見犬追物被遊候」とある。「国誌」は当地に犬ノ馬場仮屋があったと伝える。元禄国絵図に「二見村之内下大野村」とみえる。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「肥集録」は小村として井牟田・上大野・窪・内野・田子崎・平野を記す。

下大野村
しもおおのむら

[現在地名]広見町下大野

広見川中流域に位置する。東は小松こまつ村、西は広見村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「下大野村 深山つゝき、柴山川有」と村名がみえる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は二九三石五斗六升で、耕地面積の比率は田七〇パーセント、畑三〇パーセント。寛文検地では石高が七七パーセントも増加し、田三三パーセント、畑六七パーセントとなっている。「墅截」によると、村柄は「中」、田が「中ノ上」、畑は「中ノ下」とされ、水掛りは「吉」となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android