上湯川村(読み)かみゆかわむら

日本歴史地名大系 「上湯川村」の解説

上湯川村
かみゆかわむら

[現在地名]高野町上湯川

恵蘇えそ郡北端の高野山たかのやま(現神之瀬川)源流域を占める。猿政さるまさ山に発する笹谷ささや川と俵原たわらばら川が南流し、村域南部で合流して高野山川となる。北は出雲国仁多にた(現島根県)、東は森脇もりわき(現比和町)、西は下湯川村と接する。中世にはじび多賀たか村に属し、天正九年(一五八一)三月吉日付湯河通長寄進状(堀江文書)に「湯河」とみえる。この文書で、みなみ村の八幡宮に湯河内の地を神田として寄進している湯河氏は、山内氏の庶子家多賀山氏の下にあってかつて湯川村を支配していた武士の裔と思われるが、当地における事跡は不明。


上湯川村
かみゆのかわむら

[現在地名]函館市旭岡町あさひおかちよう・上湯川町・銅山町どうざんちよう三森町みつもりちようなど

近世から明治三五年(一九〇二)までの村。もとは下湯川村と一村で湯川村と称したが、松倉まつくら川を境に東側が上湯川村、西側が下湯川村に分れた(検考録)。上湯の川村・上湯野川村などと記される。近世は東在の村で、天保郷帳に上湯川村とある。「松前随商録」に「カメタ」の小名として「上ユノカワ」があげられている。天明六年(一七八六)の「蝦夷拾遺」に上湯川村とみえ、この頃には上下に分れていた。当村の家数三〇戸弱・人数一二〇余人。「蝦夷巡覧筆記」によると「上湯ノ川村」の産物は雑穀で水も悪いが、温泉があった。松浦武四郎は志苔しのり村から尻沢辺しりさわべ村方面に向かい、高尾森について「又大森とも云。


上湯川村
かみゆのかわむら

[現在地名]十津川村大字上湯川

和歌山県境、果無はてなし山脈北麓の村。上湯川の上流にあたる。十津川郷のうち。元禄郷帳に初めて村名がみえる。村高一一石、幕府領。枝郷に小壁こかべ市原いちはら大檜噌おおびそ大井谷おおいだに寺垣内てらがいと古谷川ふるやがわなどがある。享保六年(一七二一)の村方様子大概書附(千葉家文書)には、家数四三、人数一七四(男八七、女八七)、うし三疋、百姓持山二ヵ所(柴山一ヵ所、草野山一ヵ所)、野山一ヵ所(当村草刈場)とあり、「当村ニ名物ケ間敷者無御座候、少き畑少々麦作仕候、当村のかせき菖 仕候」とみえる。同一六年の石高家数御改帳(同文書)には、家数四七、人数二〇二(男一一一、女九一)、牛八疋となっている。


上湯川村
かみゆがわむら

[現在地名]七尾市湯川町ゆがわまち

崎山さきやま半島の山間部、崎山川に沿っておか村の北に位置する。川沿いに北東下流に向かって上湯川・大坪おおつぼ・下湯川の垣内がある。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に湯河村とみえ、公田数は九段三であった。長享二年(一四八八)京都北野社領能登「湯河・四柳」が社家の直務とされ、代官が差下されている(同年四月一四日「室町幕府奉行人連署奉書案」北野社家引付)。「湯河・四柳」の両所はかつて三代将軍足利義満より北野社に寄進され、同社家の密蔵院に相伝されたが、院主が早世して坊跡が断絶したため松梅院支配下に置かれることになり、天文三年(一五三四)松梅院禅光は、守護請代官として当地を沙汰していた守護畠山義総の近臣半隠斎宗春に公用年貢等の収納方を懇請している(一〇月付「松梅院禅光書状」同書)


上湯川村
かみゆかわむら

[現在地名]清水町上湯川

下湯川村の東、湯川川の上流山間部に位置する。東は大和国吉野郡、南は日高郡龍神りゆうじん村。中世にはあてがわ上庄に含まれた。室川むろがわ近井ちかい野井河のいがわという小名があり、「続風土記」に「村の四至大抵方三里許、郡の東隅に在りて四方高山絶壁にして耕へき地少く、小川ありといへとも材木を出すに足らす、窮僻寒村なり、此地小松弥助の支配にして浅野氏の時は鹿皮五十枚を貢して諸役免許の地なり、故に慶長検地帳に当村を載せす、元和以後定米三十石を貢して鹿皮に替へしむ、猶諸役を免さる」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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