福岡県田川郡福智町上野に築かれた陶窯。唐津焼と同じく朝鮮半島から渡来した陶工尊楷(日本名上野喜蔵)が,領主細川忠興の命をうけて1601年(慶長6)同地に窯を築いたとされる。22年(元和8)の《田川郡家人畜御改帳》には,上野村焼物山の条に焼物師8名の存在がしるされている。桃山から江戸時代にかかる初期の窯は,上野にある釜ノ口窯,上野皿山本窯,方城町の岩谷高麗窯が知られている。32年(寛永9),2代藩主細川忠利が熊本に移封されるにあたって,尊楷の直系は同行して同地に八代窯をおこした。しかし,上野皿山本窯は,十時家が中心となって窯を守り,明治初年まで存続した。上野焼は朝鮮系陶窯にひとしくみられる褐釉とわら灰の白濁釉,土灰釉を基礎釉とし,刷毛目,象嵌(ぞうがん)などの装飾法をおこない,江戸中期以後は緑釉,鉄絵,三彩などを加えて豊かな作陶を展開した。ただし作行きのすぐれる初期の窯址からも,作陶の水準をおしはかれるほどの陶片は,まだ十分発見されていない。
執筆者:矢部 良明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
豊前(ぶぜん)国上野(福岡県福智(ふくち)町上野)で焼かれた焼物。開窯は、細川家が豊前小倉(こくら)に封ぜられた1602年(慶長7)以後で、朝鮮半島から渡来した尊楷(そんかい)によるといわれ、豊前小倉藩の御用窯(ごようがま)となる。本格的な窯業は慶長(けいちょう)年間(1596~1615)中期以後、上野喜蔵(あがのきぞう)による釜(かま)ノ口窯(福智町上野字堀田)から始まる。このほかに皿山(さらやま)窯(本窯)、岩谷窯(唐人窯)が開かれ、この三窯を上野古窯とよび、遠州七窯(えんしゅうなながま)の一つとされている。初期の作風は高取(たかとり)焼に類似し、灰釉(かいゆう)、長石釉、黒釉を用いて日常の器皿と茶具を焼いた。なお皿山窯は、細川家が熊本へ転封になったのち、藩主小笠原(おがさわら)家の御用窯となり、上野喜蔵は細川家とともに熊本へ移り八代(やつしろ)焼を始めたと伝えられる。
[矢部良明]
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