江戸初期の大名茶人小堀遠州が指導し,またその好みの茶具を焼いたとされる七つの窯。遠州七窯が説かれるようになるのは江戸時代後期かららしく,1854年(安政1)刊の《陶器考》では,瀬戸を除いた国焼に限り,志戸呂,上野(あがの),朝日,膳所(ぜぜ),高取,古曾部,赤膚の諸窯をあげている。しかし,朝日,古曾部,赤膚は遠州の活動期以後の窯である。他方,松平不昧が著した《瀬戸陶器濫觴(らんしよう)》では,遠州時代の国焼として高取,薩摩,肥後,丹波,膳所,唐津,備前の7窯をあげており,これらの窯は遠州時代に活動していた窯であった。この二つの資料のうち,共通している高取焼と膳所焼はたしかに遠州との結びつきも深いが,全体として七窯の選択根拠ははなはだあいまいで,信憑性は薄い。
執筆者:矢部 良明
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江戸初頭を代表する大名茶人であった小堀遠州が指導したと伝える七つの窯。いずれも国焼で、静岡の志戸呂(しどろ)焼、滋賀の膳所(ぜぜ)焼、京都の朝日焼、大坂の古曽部(こそべ)焼、奈良の赤膚(あかはだ)焼、福岡の上野(あがの)焼、高取焼の七つの窯をさすとしたのは幕末1854年(安政1)の『陶器考』である。出雲(いずも)藩主松平不昧(ふまい)が1811年(文化8)に著した『瀬戸陶器濫觴(らんしょう)』には、高取、膳所以外に、鹿児島の薩摩(さつま)焼、熊本の肥後(ひご)焼、兵庫の丹波(たんば)焼、佐賀の唐津(からつ)焼、岡山の備前(ぴぜん)焼があげられ、一致していない。遠州七窯の概念は江戸後期におのずと決まったものらしく、一貫する根拠もない。おそらく「きれいさび」で象徴される美意識を盛り込んだ遠州好みの瀟洒(しょうしゃ)な作風で選択したのかもしれない。ただ、膳所焼、高取焼と遠州との交渉を示す文献史料があり、作風にもかかわりをもったことは十分に考えられる。
[矢部良明]
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