下里村(読み)さがりむら

日本歴史地名大系 「下里村」の解説

下里村
さがりむら

[現在地名]大牟田市曙町あけぼのまち泉町いずみまち出雲町いずもまち一本町いつぽんまち上町かみまち一―三丁目・左古町さこまち三坑町さんこうまち不知火町しらぬひまち一丁目・真道寺町しんどうじまち上官町じようかんまち一―四丁目・谷町たにまち常盤町ときわまち七浦町ななうらまち西宮浦町にしみやうらまち橋口町はしぐちまち花園町はなぞのまち東宮浦町ひがしみやうらまち松浦町まつうらまち宮坂町みやさかまち宮山町みややままち焼石町やけいしまち山上町やまのうえまち一浦町いちのうらまち笹林町ささばやしまち一―二丁目・築町ちくまち稲荷町とうかまち東泉町ひがしいずみまち有明町ゆうめいまち一―二丁目

稲荷とうか村の南西にある。小高い第三紀層の丘陵とその浸食谷(サコ)からなる。当村は江戸期を通じて幕府の領知目録にはみえず、元禄国絵図・天保郷帳にも記載されていない。「伊能忠敬測量日記」文化九年(一八一二)九月一六日条には「下二部村枝下里村」とあり、おそらく南隣の下二部しもにぶ村の枝村として同村の高に含まれていたのであろう。


下里村
しもざとむら

[現在地名]小川町下里・東小川ひがしおがわ

小川村の南東、小川盆地の東部に位置し、西は青山あおやま村、南西は日影ひかげ(現玉川村)。村域の中央をつき川が蛇行する。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。至徳四年(一三八七)閏五月二一日の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)に「一、下里郷 銭捌拾貫文」とあり、この頃、当地は京都天龍寺の寺領であった。天龍寺重書目録(鹿王院文書)に収められる応永二七年(一四二〇)四月一九日の足利義持御教書案によれば、同寺領である下里郷などの段銭以下、諸公事・臨時課役・守護役などが免除されている。なお年未詳の天龍寺寺領目録(同文書)にも「武蔵国下里郷」が記載されているが、当地が天龍寺領としていつまで存続したかは不詳。


下里村
しもざとむら

[現在地名]河内長野市下里町・みどり丘南おかみなみ

北から東は小山田おやまだ村、西は丘陵の稜線をもって和泉国に接する。東は標高差五〇メートルほどの浸食された丘陵、西は一〇〇メートル余の丘陵で、その間を流れる西除にしよけ川の狭い谷間に北から下里・中尾なかおの集落があり、天野山あまのさん村に続く。東の丘陵上に広野ひろのがある。治承四年(一一八〇)八月日付の源貞弘山野田畠寄進状案(金剛寺文書)の、貞弘が金剛こんごう寺に寄進した先祖相伝の私領の四至に「東限小山田領、南限日野境、西限和泉境、北限小山田境」とあり、北半は当地にあたる。下里の称は建暦元年(一二一一)五月日付金剛寺定書写(仁和寺蔵金剛寺文書)に「於寺内并下里内」とみえる。


下里村
すんだていむら

[現在地名]平良市下里しもざと

北西部は平良ぴいさらの内海に面し、西部は久貝ふが村などに接する。平良ぴいさら間切に属し、平良五ヵ村の一つ。のち砂川うるか間切に属する。方音ではスンダティ。北部は街並を形成し、系持(士族)が多く居住し、南部は農村地帯で士族に隷属する名子の開拓集落が散在する。嘉靖年間(一五二二―六六)白川氏四世恵山が下里与人となっており(白川氏正統家譜)、村の成立は古琉球にさかのぼる。街並南西の「上地の(上角)」から万暦四七年(一六一九)に平良大首里大屋子、崇禎五年(一六三二)に下地首里大屋子が出ており、古くから役人層の居住地である東仲宗根あがなかずうに村から当村への役人層の移動がみられる。


下里村
しもさとむら

[現在地名]那智勝浦町下里

太田おおた川河口部にある大村。北は市屋いちや村、北西は八尺鏡野やたがの村。小名に高芝たかしば天満てんまがある(続風土記)。至徳元年(一三八四)九月八日付旦那相博状(米良文書)に「下里竹内沙弥覚正」とみえる。

慶長検地高目録によれば村高五一〇石余、小物成三斗七升六合。文政元年(一八一八)の郷帳(「那智勝浦町史」所収)によれば家数七七で内訳は本役一三、庄屋・肝煎・歩行合四、寺・神主二、大工二、半役・隠居一六など、人数八六五(男四四九・女四一六)、牛三七、鉄砲二、船数三八(いさば一一・漁船一八・瀬取船八・渡船一)、細魚網一。


下里村
しもさとむら

[現在地名]東久留米市下里一―七丁目・野火止のびどめ一―三丁目・幸町さいわいちよう五丁目・滝山たきやま一―七丁目

小山こやま村の西に位置し、西は柳窪やなぎくぼ村、南は前沢まえさわ村、北は南秋津みなみあきつ(現東村山市)。北端を野火止用水、北部を黒目くろめ川が東流し、南北に所沢街道(秩父道)が通る。田園簿に村名がみえ、高二〇〇石で畑方のみ。その後の新田開発の結果、元禄郷帳では高四三〇石余、天保郷帳では高五〇一石余にまで増加した。


下里村
しもざとむら

[現在地名]湖東町下里

中里なかざと村の北西に位置する。元和三年(一六一七)彦根藩領となり、寛永石高帳によれば高五〇七石余。同二年頃から当村などの荒地を南菩提寺みなみぼだいじ村の太田庄左衛門が開発し、大沢おおざわ村が開村した。文久二年(一八六二)上知。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男六九・女七六、寺社方男二。


下里村
さがりむら

[現在地名]京ヶ瀬村下里

阿賀野川右岸に位置し、東は小河原こがわら村、南は嘉勢島かせじま村。近世前期は新発田藩岡方組の五ヶ村組に属し、正保国絵図に村名がみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には高四〇石一斗余とあり、同七年と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によると家数二四・人数二二五。天明二年(一七八二)の岡方組万雑組立帳(倉島肩吾氏蔵)によれば役石は一四二石八斗余で、五貫九四〇文の組万雑を負担している。


下里村
しもざとむら

[現在地名]上県町樫滝かしたき 下里

樫滝かしたけ村の南西にある同村枝郷。「津島紀略」では志茂坐土と訓じ、仁田六ヵ村の一つ。「郡方毎日記」寛永一五年(一六三八)条に「しもはる」とみえるのが当地と考えられ、「津島紀事」でも正保之記に下原しもはると記されていたという。貞享三年(一六八六)の神社誌に下里村と記され、いくさ大明神が鎮座。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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