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中山みき なかやまみき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中山みき
なかやまみき

[生]寛政10(1798).大和
[没]1887.2.18. 天理市
天理教教祖。大和国山辺郡三昧田村 (奈良県天理市) の庄屋前川半七,きぬの長女として生れる。 13歳で中山善兵衛にとつぐ。天保9 (1838) 10月 26日みき 41歳のとき,人間世界の創造神 (親神天理王命) の神意伝達者である「やしろ」となり,以来,家財を貧しい人々に施し,神のいわれた「貧に落ち切れ」を実践。 1887年で亡くなるまでの 50年間,世間の迫害干渉にも屈せず,神意をのべ伝え人々を教化した。その教えは,天理教の儀礼である「かぐらづとめ」の地歌である『みかぐらうた』,さらに教義歌である『おふでさき』という直筆の書に記されているほか,『おさしづ』にも言葉が筆録されている。また,天理教では,みきの後半生 50年の道を人間の生きるうえでの「ひながた」としている。

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百科事典マイペディアの解説

中山みき【なかやまみき】

天理教の教祖。天理市丹波市(たんばいち)の生れ。中山善兵衛に嫁し,困苦の中に生活したが,長男秀司が病気のとき,突如天啓を受けた。夫の死後安産の神さらには救済神として近隣の農民信仰を得,数次にわたる官憲の迫害にあいつつ教団を拡大した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

中山みき なかやま-みき

1798-1887 江戸後期-明治時代の宗教家。
寛政10年4月18日生まれ。天理教の教祖。長男の病気を契機に天保(てんぽう)9年10月26日神がかりとなり,救済の神として近隣の信仰をあつめる。たびたびの官憲の迫害にたえ,教義の原典となる「御神楽歌(みかぐらうた)」「おふでさき」をあらわした。明治20年2月18日死去。90歳。大和(奈良県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

中山みき

没年:明治20.2.18(1887)
生年:寛政10.4.18(1798.6.2)
天理教の教祖。大和国山辺郡(奈良県天理市)の庄屋前川家の長女として生まれる。13歳で同郡庄屋敷村の中山善兵衛と結婚。中山家は綿などの仲買いもする地主であった。働きぶりを評価され16歳で中山家の所帯の一切をまかされる。17年間に1男5女をもうけるが次女と4女を亡くした。天保8(1837)年長男の秀司が突然足に激痛を訴えたため行者に祈祷を依頼し,いくたびも「寄加持」を行う。同9年10月23日の寄加持のおり加持台をつとめたみきは神がかり状態となる。みきに降りた神は「元の神」「実の神」と名乗り,「三千世界を助けるために天降った。みきの身体を神の社としてもらいうけたい。承知しなければこの家をつぶす」と宣告,夫もやむなく承諾する。みきが最初に神がかりしたこの日はのちに天理教立教の日とされる。夫の死後中山家は没落し,貧窮生活のなかでみきは安政1(1854)年初産を迎える3女に,神が安産を守護するとの「おびや許し」を授け,のちに産の忌み・危険に悩む他の女たちにも行い「おびやの神様」として評判になる。 元治1(1864)年ごろから,みきの信仰の理解者である5女のこかんと共に安産や疱瘡などの病気治しによる「たすけ」を活発に行い,神主や僧侶などの干渉にもかかわらず多くの信者を得る。慶応3(1867)年から親神「てんりんおう」の神意を数え歌形式の「みかぐらうた」,また明治2(1869)年から教義「おふでさき」を書き始める。「人間は男女のへだてなくみな神の子として平等であり,悪心を去り神への奉仕に努めれば,権力に虐げられ苦しんでいる者こそが救済され,『陽気暮らし』の理想世界が実現する」というみきの教えは幕末維新期の庶民の願いに合致し,教勢を伸ばしたがゆえに官憲から苛烈な圧迫を受けた。教団幹部は布教の公認を得ようとするが,みきは抵抗の姿勢を保つ。 同6年,救済実現のとき天から与えられる霊薬を受ける「甘露台」を,神による人類創造の場として中山家の屋敷地「ぢば」に築くことを願い,独自の神話『こふき』を作ろうとするが,同15年建設中の甘露台が警官によって破壊され,これを機に「おふでさき」の執筆をやめる。同19年2月信者の集団参拝を理由に警察に15日間拘留されたため健康を損ね,同20年危篤状態となる。みきは幹部信者たちに「神が大事か,世俗の法が大事か」といい,警察に禁止されていた,鳴りものに歌舞をともなう儀礼「かぐらづとめ」をするよう促す。拘束を覚悟した信者たちが行うかぐらづとめの音を聞きながら90歳で永眠した。みきの生涯は信者たちにとって人間の生き方の「ひながた」であり,その魂は死後も「ぢば」に鎮まり人間を導き救済し続けているとされる。<著作>『おふでさき』『みかぐらうた』<参考文献>天理教教会本部編『稿本 天理教教祖伝』,芹沢光治良『教祖様』,八島英雄『中山みき研究ノート』

(井桁碧)

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世界大百科事典 第2版の解説

なかやまみき【中山みき】

1798‐1887(寛政10‐明治20)
天理教教祖。大和国(奈良県)山辺郡三昧田村の地主の長女に生まれ,13歳で丹波市(現,天理市)近郊の庄屋敷村の中山家に嫁した。中山家は棉屋,質屋を兼ねる商人化した地主であったが,家業を顧みない夫にかわって家事,農事に心身を労し,夫とは心が触れあうこともないまま,自己犠牲忍従の生活を続けた。幼少から深く来世の救いを信じ,19歳のとき浄土宗檀那寺五重相伝をうけたほどの篤信者であったが,浄土の信仰によっても,封建社会に生きる主婦としてのみきの内面は満たされず,年とともにその苦悩は深まる一方であった。

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大辞林 第三版の解説

なかやまみき【中山みき】

1798~1887) 天理教教祖。大和の人。一三歳で庄屋の中山善兵衛に嫁ぐ。四一歳のときに神がかり、以来50年間、神意を宣べ、「みかぐらうた」「おふでさき」を書き、弾圧にあいながら人々を教化した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中山みき
なかやまみき
(1798―1887)

天理教の教祖。寛政(かんせい)10年4月18日大和(やまと)国山辺郡三昧田(さんまいでん)村(奈良県天理市)の庄屋(しょうや)前川半七の長女として出生。13歳で同郡庄屋敷村の庄屋中山善兵衞に嫁ぐ。1838年(天保9)10月26日41歳のとき、人間世界の創造神(親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと))の「やしろ」(神意伝達者)となり、以来87年(明治20)2月18日没するまでの50年間、世間の嘲笑(ちょうしょう)、官憲の弾圧の中、神意を宣(の)べ伝え人々を教化した。その教えは『おふでさき』『みかぐらうた』という直筆の書に記され、また『おさしづ』にもことばが筆録されている。天理教では、みきの後半生50年の道を人間の生きるうえの「ひながた」とし、また没後も、みきは存命同様に働いていると信じられている。1986年(昭和61)1月26日には教祖百年祭が行われた。[松本 滋]
『天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』(1956・道友社) ▽天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝 逸話篇』(1976・道友社)』

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世界大百科事典内の中山みきの言及

【天理教】より

…習合神道系の創唱宗教。1838年(天保9)大和国山辺郡庄屋敷村(現,奈良県天理市)で,地主の主婦中山みき(1798‐1887)が開教した。みきは浄土宗をあつく信じていたが,41歳のとき,長男の病気を治すために招いた山伏の加持台をつとめ,神がかりしてみずから〈天の将軍〉〈元の神,実の神〉〈大神宮〉と名のり,〈三千世界のたすけ〉のため天降ったと宣言した。…

※「中山みき」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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