中島新田(読み)なかじましんでん

日本歴史地名大系 「中島新田」の解説

中島新田
なかじましんでん

[現在地名]紫雲寺町中島

旧紫雲寺潟の東方にあり、北は大中島おおなかじま新田・高島たかしま新田、東・南・西の三方住吉すみよし新田。享保二〇年(一七三五)検地紫雲寺潟新田の一村で、開発願人竹前権兵衛の請地。元文元年(一七三六)検地帳(紫雲寺町役場蔵)によれば、高三七二石三斗余・反別三三町七反余、ほかに除地として秣場七反余、見取場一反余、廟所・葬場一反余などがあり、総反別は三四町八反余。検地の名請人は寺院への寄進分を除いて権兵衛のみである。飛地は東方に字灰塚はいづかかけひ南方に字大中島・室元むろもとの四ヵ所で、いずれも住吉新田・南成田みなみなりた新田と入交じっている。用水押廻おしまわし用水のほか、住吉分水・中島新田地内筧を用いた。


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]西淀川区中島一―二丁目

神崎川河口の新田で、酉洲とりす新田と同川分流城島川を挟んだ西にある。北部を尼崎あまがさき(現兵庫県尼崎市)に向かう街道が通り、集落がこれに沿う。もとは城島親島・弥左衛門島とよんだ。元禄一一年(一六九八)幕府が大坂の河口に新田の開発を進めた際、京都の丁子屋中島市兵衛が地代金二千二一五両で請負った。同一五年の検地で反別四九町一反余・高四四二石余、明和二年(一七六五)検地があり(西成郡史)、天保郷帳では五八一石余。


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]東根市中島新田・中島通りなかじまどおり一丁目・中島東通りなかじまひがしどおり

みだれ川扇状地の扇央部、北方村山野むらやまの川が西流する。東は太田おおた新田、西は坂垣いたがき新田に接する。地名は開発者岡田円蔵が営んでいた旅籠屋中島屋にちなむ。東根村の岡田円蔵が金一七五両で若木おさなぎの藩林四〇町歩の払下げを受け開墾して成立。明治三年(一八七〇)検地を受け村立て、高一二石余、反別九町二反余(「検地帳」岡田文書)


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]広神村中島新田

中島村の北に続く破間あぶるま川左岸の村。寛文一〇年(一六七〇)以前に中島村より分村したものと思われる。同年の検地帳(富永定左衛門氏蔵)によると、田畑合計八町三反余・高合計六二石六斗。高のうち新田頭長左衛門が六石を所有する。天和三年(一六八三)の検地帳(同氏蔵)では田四町余・畑四町六反余。


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]頸城村下中島新田しもなかじましんでん

かた川の南岸に位置し、東に松橋まつはし村、南東榎井えのい村がある。明暦元年(一六五五)に開発のなった中谷内なかやち新田のうち。天和三年郷帳によれば高一二八石五斗余であった。宝永七年(一七一〇)頃と思われる宰浜村々高寄帳(明治大学刑事博物館蔵)によれば田八町五反余・畑一町九反余とあり、さらに「古高」七九石四斗七合が記される。


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]板倉町上中島新田かみなかじましんでん

せき川とその支流大熊おおくま川の合流点に位置する。南に中島村、北東に下田屋しもたや村がある。天和三年(一六八三)の検地帳(伊藤文書)によれば高三〇石余、田二町三反余・畑二反余、家数六。安永九年(一七八〇)には家数一一・人数五一、馬一、寛政七年(一七九五)には家数一〇・人数四九、馬四で、年貢米は中島郷蔵に納めている(「村明細帳」同文書)


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]妙高村中島新田

せき川左岸に沿って走る道に沿い、南西は橋本はしもと新田、北東は大塚おおつか新田、西は東田屋ひがしたや新田である。天和三年郷帳に高四二石七斗余とある。


中島新田
なかじましんでん

[現在地名]新潟市東中島ひがしなかじま一―四丁目・中島・さる馬場ばば一丁目

猿ヶ馬場新田の北、砂丘列上に立地。元禄一二年(一六九九)の横越組新村付帳(新発田市立図書館蔵)に寛永一四年(一六三七)の開発とあり、親村は本所ほんじよ村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android