中庄村(読み)なかのしようむら

日本歴史地名大系 「中庄村」の解説

中庄村
なかのしようむら

[現在地名]羽ノ浦町中庄

現町域の東部に位置し、北東は坂野さかの(現小松島市)、東は黒地くろじ村・八幡やわた(現那賀川町)、南ははら(現同上)。西方をほぼ南北に土佐街道が通り、東へ富岡とみおか(現阿南市)へ向かう道が分岐する。村名は中荘とも記され(阿波志)、観応二年(一三五一)九月五日の細川頼春預ケ状(紀伊安宅文書)にみえる「立江中庄」に由来すると考える説もある。那東なとう浦川うらかわ高田こうだ那東原なとうばらの支村があった(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に那東郡の中庄とみえ、一〇一石が樋口内蔵助、四〇〇石が長江源右衛門、三一石余が田川権右衛門、三九石余が田川忠右衛門、八六石余が黒部理助、一六五石余が前田次兵衛、一三八石余が河野源次郎、一〇〇石が不破又右衛門の各知行分。また那西なさい郡の中庄もみえ、高一六八石余が武藤小二郎の知行分。慶長九年の那東郡中庄浦川那東村検地帳(羽ノ浦町教育委員会蔵)によると田高一千一四七石余・七九町二反余、畠高四八八石余・四六町五反余で、田畠合高一千六三六石余・一二五町八反余。正保国絵図では中庄村とみえ高一千六三一石余、ほかに中庄之内として那東村が記される。

中庄村
なかのしようむら

[現在地名]因島市中庄町

重井しげい村の南東に位置し、東は外浦とのうら、南は田熊たくま村に接し、東北より深く入込む入江に面して立地。長講堂領とされた因島庄の一部で、やや検討の余地がある史料ではあるが、貞応元年(一二二二)一一月一一日付の因島中庄預所下文(因島村上文書)に「因島中御庄」とみえ、清原守高なる人物が給田八反で公文職に補任されている。また建治二年(一二七六)八月日付の備後国御調郡内諸庄園領家地頭注文(教王護国寺文書)には「因島中庄」として領家は宣陽門院、地頭は北条宗政、田数六町とある。因島では中庄・三津みつ庄・重井庄ともに地頭は北条一門に分給されており、おそらく鎌倉中期以降は北条氏の得宗領とされていたと思われる。元弘三年(一三三三)一一月三〇日、北条泰家の因島地頭職は没収されて、後醍醐天皇から浄土じようど(現尾道市)へ寄進された(浄土寺文書)。この浄土寺領因島庄も中庄・重井庄・三津庄を含み、建武四年(一三三七)一〇月に作成された浄土寺領因島地頭方年貢注文(浄土寺文書)には、中庄分として名々塩一千七一俵二斗三升三合、色々銭納物七五貫四八四文、地頭名田八町八反一六〇歩・分米二三石八斗九升五合四勺、加徴地一三町七反二二〇歩・分加徴米六石八斗八升二勺、そのほか新田・畠地・栗林からの得分を記載。

中庄村
なかしようむら

[現在地名]三加茂町中庄

西庄にししよう村の東、吉野川南岸に位置し、東は毛田けた村、南は祖谷いや山。吉野川対岸の太刀野たちの(現三野町)とを結ぶすみノ渡があった。中世には金丸かなまる(金丸中庄)に含まれた。慶長二年(一五九七)の分限帳にも金丸中庄とみえ、五九七石余が中村藤兵衛、三〇〇石が益田八右衛門の知行であった。また同帳には金丸のうちとして古田左助の知行三〇〇石が記されている。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)では村瀬将監の知行分に中ノ庄村として高一〇六石余・人数八人とある。正保国絵図では中庄村一千一九七石余のほか、中庄のうち中瓦山村がみえる。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三七二石余・畠方八二五石余、旱損・芝山・小はへ山の注記があり、枝村として中尾山村の記載がある。

中庄村
なかしようむら

[現在地名]マキノ町中庄

西近江路に沿い、北は新保しんぼ村。もと黒田くろだ村と称したが、大沼おおぬま村にいた小野高景が当地を領し、のち新保を開いたので、当地は中間になったため中ノ庄とよんだという。また河上かわかみ庄にも大処おおところ庄にも属さないための村名ともいわれる(高島郡誌)。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「中之庄」とある。康正元年(一四五五)八月の北野社領目録断簡(北野神社文書)に「江州 中庄村」とある。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)によれば、新保村と当村で一千七五五石余。

中庄村
なかのしようむら

[現在地名]明石市日富美町ひふみちよう岬町みさきちよう大観町たいかんちよう樽屋町たるやまち

明石川下流の東岸に位置する狭小な村。かつては大明石おおあかし村同様人丸ひとまる山の麓から浜辺にかけて広がっていた。当時山陽道は大蔵谷おおくらだに村から北西方の王子おうじ村へ直進しており、当村は山陽道の南側から同川河口東岸にかけて発展していたが、明石城築城に際し村域の大部分が城地および城下町の区域にとり入れられた。

中庄村
なかのしようむら

[現在地名]新宮町中野庄なかのしよう

段之上だんのうえ村の南に位置し、揖保川と支流栗栖くりす川との間に立地する。揖東いつとう郡に属した。村名は中世の越部中こしべなか庄の中心部にあったことによる。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に越部中庄村とみえ、同村の六〇〇石余が小出吉政に与えられている。慶長国絵図には中ノ庄村とみえる。江戸時代の領主の変遷は新宮村と同じ。

中庄村
なかのしようむら

[現在地名]根上町中庄町

福岡ふくおか村の東、中江なかのごう村の北に位置。中世には郡家ぐんけ庄に含まれ、地名は「郡家庄内中庄」(応永三三年九月六日「売券」勧修寺文書)に由来。延文五年(一三六〇)一二月二一日の頼胤等敷地田畠寄進状(大徳寺文書)に「中庄任田郷内勝楽寺」とある。前掲売券によると郡家庄の領家勧修かじゆう(現京都市山科区)山科やましなの寺領の一部を山城醍醐寺の関係者に売却したが、売却した下地に違乱があった場合は「賀州郡家庄内中庄年貢」をもって返弁すると約束している。江戸時代は加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)より万治二年(一六五九)までは越中富山藩領。

中庄村
なかんしよむら

[現在地名]春江町中庄

九頭竜くずりゆう川の支流磯部いそべ川の北岸に沿う。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では江留えとみ庄に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一千八二三石余・畠方六〇石。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領になる。嘉永三年(一八五〇)の御預り所村々戸籍人別御改帳面惣代より御役所相納候高人別抜出留帳(矢尾家文書)によると家数八二、人数三七五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報