日本歴史地名大系 「十日町市」の解説 十日町市とおかまちし 面積:二一一・四四平方キロ旧中魚沼郡のほぼ北半分を占め、信濃川水系に属する。北は小千谷(おぢや)市・北魚沼郡川口(かわぐち)町・堀之内(ほりのうち)町、東は魚沼丘陵で魚野(うおの)川水系の南魚沼郡大和(やまと)町・六日(むいか)町・塩沢(しおざわ)町、南は中魚沼郡中里(なかさと)村、西は東頸城(ひがしくびき)郡松之山(まつのやま)町・松代(まつだい)町と中魚沼郡川西(かわにし)町。市域のほぼ中央を信濃川が北流し、魚沼丘陵より当間(あてま)川・入間(いるま)川・羽根(はね)川・川治(かわじ)川・晒(さらし)川・田(た)川・上大井田(かみおおいだ)川・下大井田川・飛渡(とびたり)川などの小流が北西流ないしは西流して信濃川に注ぎ、東頸城の丘陵からは浅河原(あさがわら)川・樽沢(たるさわ)川が合流して信濃川に注ぐ。これら小流を集めた信濃川両岸には、広い沖積平地が形成されている。道は信濃川左岸に川西信州道、右岸に善光寺道(現国道一一七号)、東西には府中(ふちゆう)(現上越市)から松代・松之山を経由して魚沼丘陵越で三国街道(現国道一七号)と結ばれる道(現国道二五三号)や柏崎方面から木落(きおとし)(現川西町)経由で三坂(みさか)峠越で会津方面へ至る道(現国道二五二号)が通る。十日町の地名は、北に四日町(よつかまち)の地名が続くことから、中世末に六斎市の開設場所にちなむものと思われる。〔原始・古代〕考古遺跡の発掘例のほとんどは信濃川両岸に集中する。縄文前期に属する城倉(じようくら)遺跡が知られるが、中期から後期にかけての集落跡を伴う例が多い。信濃川上流の長野県北部の文化の影響が認められる弥生中期末から後期にかけての牛(うし)ヶ首(くび)遺跡がある。当間川下流の馬場上(ばばがみ)遺跡には五―九世紀にかけての集落跡が認められた。「和名抄」魚沼(いおぬ)郡内四郷のうち、旧中魚沼郡は那珂(なか)郷に属したとする説がある(大日本地名辞書)が、確たる根拠はない。「延喜式」神名帳魚沼郡五座のうちに比定される神社はない。〔中世〕旧中魚沼郡域には妻有(つまり)庄・波多岐(はたき)庄があった。信濃川左岸を波多岐庄、右岸を妻有庄とする説や両庄同一地域をさすとする説など双方の関係やその庄域などについては明瞭さを欠く。 十日町市とおかまちし 2005年4月1日:十日町市と東頸城郡松代町・松之山町、中魚沼郡中里村・川西町が合併⇒【松代町】新潟県:東頸城郡⇒【松之山町】新潟県:東頸城郡⇒【中里村】新潟県:中魚沼郡⇒【川西町】新潟県:中魚沼郡⇒【十日町市】新潟県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十日町市」の意味・わかりやすい解説 十日町〔市〕とおかまち 新潟県南部,信濃川中流域にある市。1954年十日町と中条村,川治村,六箇村の 3村が合体して市制。同年吉田村,1955年下条村,1962年水沢村をそれぞれ編入。2005年川西町,中里村,松代町,松之山町と合体。中心市街地は十日町盆地の中心に位置し,江戸時代初期は高田領に属したが,中期以降会津藩の預領となり,陣屋町として繁栄した。古くから手機 (てばた) が発達し,麻織物の集散地としても発展,江戸時代中頃織物に改善が加えられて小千谷縮となった。十日町明石縮,お召など高級絹織物の全国有数の産地。中小の工場のほか賃機による生産も多い。米の産地として知られ,信濃川の支流渋海川流域では棚田が開かれている。また養鯉業も行なわれる。冬季の豪雪地の一つで,ほんやらどう,雪祭の行事は有名。市街地には雪国特有の雁木もみられる。市域の一部は上信越高原国立公園,直峰松之山大池県立自然公園に属する。JR飯山線,国道117号線,353号線,403号線などが通る。面積 590.39km2(境界未定)。人口 4万9820(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by