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中村城 なかむらじょう

日本の城がわかる事典の解説

なかむらじょう【中村城〈福島県〉】

福島県相馬中村にあった梯郭式の平山城(ひらやまじろ)。平安時代初めに奥州に遠征した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により築かれたことが起源とされる。南北朝時代初めの1337年(延元2/建武4)、一帯を支配した中村朝高が築いた中村館が中村城の原型となった。以後、一帯は戦国時代まで中村氏の支配が続いたが、16世紀後半には中村氏に代わって相馬氏の勢力が増大し、1543年(天文12)には相馬氏14代の相馬顕胤が中村氏を討って草野直清を城代として入城させ、1563年(永禄6)には相馬盛胤の次男の隆胤が居城とした。16世紀後半からは伊達氏の攻勢が激しくなるが、相馬氏はこの城を守り抜いた。江戸時代に入り、1611年(慶長16)には、同城は相馬中村藩6万石の藩主の居城・政庁となった。藩主の相馬利胤は城郭の改修に着手し、天守のある梯郭式の縄張りを持つ城となった。しかし、1670年(寛文10)、落雷により天守を焼失し、以後再建されることのないまま明治を迎え、1871年(明治4)に廃城となり、城内の建物が棄却された。現在、城跡は馬陵公園となっており、園内には大手門、石垣、土塁、水堀が残っている。市街地の城址であるにもかかわらず、往時の姿を良好に残している。また、園内の本丸跡にある相馬中村神社は相馬野馬追祭りの祭場の一つになっている。JR常磐線相馬駅から徒歩約10分。◇相馬中村城、馬陵城とも呼ばれる。

なかむらじょう【中村城〈高知県〉】

高知県四万十市(旧中村市)丸の内にあった中世から近世にかけての平山城(ひらやまじろ)。西に四万十川(しまんとがわ)、東に後川が流れ、中村平野を一望する丘陵地に築かれた。中村城の起源は明らかでないが、豪族の為松(ためまつ)氏が城を築き、居城としていたと考えられている。1468年(応仁2)、前関白の一条教房(いちじょうのりふさ)が京の戦乱を避けて、荘園があった中村(土佐幡多(はた)郡)に逃れてきた。この時、為松氏は国司となった一条氏に家老として仕え、中村古城を整備、以来一条氏の居城になった。しかし5代兼定が悪政を行い、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)により豊後(大分県)に追放された。それ以来、中村城をめぐって攻防が繰り返されたが、一条氏は敗れて滅んだ。替わって中村城には、元親の弟吉良親貞が城代として入り、中村城は戦国時代の城郭として整備された。関ヶ原の戦いの戦功により、山内(やまのうち)一豊が土佐に入封。一豊は高知城(高知市)を築いて居城としたため、支城の中村城には弟の康豊(やすとよ)が入城した。康豊の子政豊(まさとよ)の代に、中村城はさらに修築され近世城郭の形が整ったが、1615年(元和1)一国一城令により廃城となった。現在、城跡は為松公園(ためまつこうえん)として整備され、土塁と石垣などの遺構がわずかに残る。公園内には天守を模した幡多郷土資料館が設けられているが、この天守は中村城とは関係がない。JR土讃本線・土佐くろしお鉄道中村線中村駅から徒歩25分。◇為松城(ためまつじょう)ともいう。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典内の中村城の言及

【中村[市]】より

… 一条氏は京畿政権と密接な連係を保ち,また文明期(1469‐87)以後,細川氏・堺衆経営の日明貿易船が南海路を経るようになったこともあって,堺商人,伊勢御師などの往来も繁くなり,中村の都市的発展は促進された。1574年(天正2)一条氏を豊後に追った長宗我部元親は弟親実を中村城に入れ,以後,城監がこの地を支配した。《長宗我部地検帳》によれば,中村御所の周辺に羽生,宮田など公家風の人名を冠した小路が15あり,商職人や市の存在もわずかに残り,かつて中村御所を核として形成された小城下町的様相が推察される。…

※「中村城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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