中浦ジュリアン(読み)なかうらじゅりあん(英語表記)Nakaura Julião

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中浦ジュリアン」の意味・わかりやすい解説

中浦ジュリアン
なかうらじゅりあん
Nakaura Julião
(1570ころ―1633)

天正(てんしょう)遣欧使節の一人。肥前(ひぜん)国大村領中浦(長崎県西海(さいかい)市西海町中浦)に生まれ、1580年(天正8)有馬セミナリオ(小神学校)の第1期生となる。少年使節団の副使に選ばれ、1582年長崎港を出帆し、ローマにて教皇に謁見した。禁教令下の1590年に帰国し、翌1591年天草においてイエズス会へ入会した。1601年(慶長6)マカオの神学院に送られて倫理神学を学び、1608年司祭となった。1614年のキリシタン禁教令のときには日本に残留し、その後20年間潜伏して有馬(ありま)、口之津(くちのつ)(いずれも長崎県)を中心に布教活動を続けた。1632年(寛永9)末小倉(こくら)(福岡県)で捕らえられ、翌1633年10月21日長崎西坂で4日間穴吊(づ)りの刑に処せられ殉教した。そのとき「私はローマへ行った中浦ジュリアン神父である」と叫んだという。

[宮崎賢太郎 2018年3月19日]

『ルイス・フロイス著、岡本良知訳註『九州三侯遣欧使節行記』(1942・東洋堂)』『デ・サンデ編、泉井久之助他訳『新異国叢書5 天正遣欧使節記』(1969・雄松堂書店)』『結城了悟著『天正少年使節の中浦ジュリアン』(1981・日本二十六聖人記念館)』『松田毅一著『天正少年使節』(角川新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中浦ジュリアン」の意味・わかりやすい解説

中浦ジュリアン
なかうらジュリアン

[生]永禄11(1568).肥前
[没]寛永10(1633).10.21. 長崎
安土桃山時代の天正遣欧使節一員武家の子。通称ジングロー。有馬セミナリオ (神学校) に学んだ。天正 10 (1582) 年遣欧使節の一員としてローマに派遣され,同 18年帰国。同 19年イエズス会士となり,のち司祭として迫害下の九州各地に布教。豊前小倉で捕われて長崎で殉教。 (→バリニャーノ )

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