久世広周(読み)クゼヒロチカ

精選版 日本国語大辞典 「久世広周」の意味・読み・例文・類語

くぜ‐ひろちか【久世広周】

  1. 江戸末期の老中。下総関宿藩主。初姓大草。大老井伊直弼(なおすけ)の暗殺後、老中首座として安藤信睦とともに公武合体を策し、和宮の降嫁を実現。のち失政を問われ、辞職。文政二~元治元年(一八一九‐六四

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改訂新版 世界大百科事典 「久世広周」の意味・わかりやすい解説

久世広周 (くぜひろちか)
生没年:1819-64(文政2-元治1)

幕末期の老中,下総関宿藩主。大草家に生まれ,のち久世広運の養嗣となり,1829年藩主となった。43年寺社奉行,48年西丸老中,51-58年老中。60年(万延1)再び老中となり1万石の加増を受ける。首席老中安藤信正とともに公武合体政策を推進し,62年(文久2)2月には将軍徳川家茂への和宮降嫁を実現させた。しかし,この政策に対する反対も強まり,同年6月,老中辞職。8月には,在職中に失政があったとの理由で,安藤とともに隠居,急度慎の処罰を受け,加増分1万石を削られた。さらに11月には永蟄居を命ぜられた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久世広周」の意味・わかりやすい解説

久世広周
くぜひろちか

[生]文政2(1819).江戸
[没]元治1(1864).6.25. 江戸
幕末の老中。旗本大草高好の次男。関宿藩主久世広運の養嗣子となり,文政 12 (1829) 年,襲封し5万 8000石の領主となる。寺社奉行を経て嘉永1 (48) 年西丸老中,同4年老中となる。久世家は代々老中を輩出した家柄でその最後の老中である。安政の大獄寛刑を主張して井伊大老により罷免されたが,万延1 (60) 年再び老中となり,安藤信正と協力して公武合体を推進し,難局の打開に努めた。和宮降嫁を実現したが (→和宮降嫁問題 ) ,攘夷主義の拠点となった朝廷は幕府に鎖国攘夷を主張してやまず,ついに安藤とともに責任をとらされて文久2 (62) 年6月辞職,のち減封,永蟄居に処せられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久世広周」の解説

久世広周 くぜ-ひろちか

1819-1864 江戸時代後期の大名。
文政2年4月12日生まれ。旗本大草高好(たかよし)の次男。久世広運(ひろたか)の養子となり,文政13年下総(しもうさ)関宿(せきやど)藩(千葉県)藩主久世家7代。寺社奉行などをへて老中にすすみ,安藤信正とともに公武合体をとなえ,皇女和宮(かずのみや)を将軍徳川家茂(いえもち)の妻にむかえる策を実現させた。文久2年在職中に失政があったとして減封蟄居(ちっきょ)となる。元治(げんじ)元年6月25日死去。46歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「久世広周」の解説

久世広周
くぜひろちか

1819.4.-~64.6.25

幕末期の老中。下総国関宿藩主。父は旗本大草高好。関宿藩主久世広運(ひろたか)の養子。1830年(天保元)遺領相続。37年奏者番,43年寺社奉行兼帯,48年(嘉永元)西丸老中,51年本丸老中。58年(安政5)大老井伊直弼(なおすけ)と対立して老中解任。桜田門外の変後再任され,老中首座。安藤信正とともに政局の収拾を行うが,62年(文久2)安藤が失脚すると老中を辞任した。その直後隠居・永蟄居を命じられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「久世広周」の解説

久世広周
くぜひろちか

1819〜64
幕末の政治家
下総(千葉県)関宿藩主。1851年老中となる。安政の大獄のとき大老井伊直弼 (なおすけ) の水戸・尾張・越前3侯に対する処分に反対して退任。桜田門外の変('60)後再任され,安藤信正とともに公武合体策を推進したが,'62年坂下門外の変後失脚。

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