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久世広周 くぜひろちか

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

久世広周
くぜひろちか

[生]文政2(1819).江戸
[没]元治1(1864).6.25. 江戸
幕末の老中。旗本大草高好の次男。関宿藩主久世広運の養嗣子となり,文政 12 (1829) 年,襲封し5万 8000石の領主となる。寺社奉行を経て嘉永1 (48) 年西丸老中,同4年老中となる。久世家は代々老中を輩出した家柄でその最後の老中である。安政の大獄寛刑を主張して井伊大老により罷免されたが,万延1 (60) 年再び老中となり,安藤信正と協力して公武合体を推進し,難局の打開に努めた。和宮降嫁を実現したが (→和宮降嫁問題 ) ,攘夷主義の拠点となった朝廷は幕府に鎖国攘夷を主張してやまず,ついに安藤とともに責任をとらされて文久2 (62) 年6月辞職,のち減封,永蟄居に処せられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

久世広周 くぜ-ひろちか

1819-1864 江戸時代後期の大名。
文政2年4月12日生まれ。旗本大草高好(たかよし)の次男。久世広運(ひろたか)の養子となり,文政13年下総(しもうさ)関宿(せきやど)藩(千葉県)藩主久世家7代。寺社奉行などをへて老中にすすみ,安藤信正とともに公武合体をとなえ,皇女和宮(かずのみや)を将軍徳川家茂(いえもち)の妻にむかえる策を実現させた。文久2年在職中に失政があったとして減封蟄居(ちっきょ)となる。元治(げんじ)元年6月25日死去。46歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

久世広周

没年:元治1.6.25(1864.7.28)
生年:文政2(1819)
幕末の老中。幕臣大草高好の次男。文政12(1829)年関宿藩(千葉県)藩主久世広連の養子となり,天保1(1830)年襲封。奏者番,寺社奉行を経て嘉永4(1851)年老中となり阿部正弘を支援。井伊直弼大老就任ののち,徳川斉昭ほかの処分に慎重な態度を示し,安政5(1858)年10月辞職。桜田門外の変直後の万延1(1860)年閏3月老中に再任,安藤信正と共に幕政を担当。ヒュースケン暗殺事件,ロシア艦対馬占領事件,東禅寺襲撃事件などの外交問題処理に当たり,和宮降嫁に際しては御縁組御用掛を務めた。また「航海遠略策」に共鳴して長井雅楽を援助。坂下門外の変で安藤が負傷し老中職を去り,長井の公武合体運動が挫折し,文久2(1862)年6月辞職。同年8月,在職中の失政を問われて隠居・急度慎,次いで永蟄居の追罰を受けた。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

くぜひろちか【久世広周】

1819‐64(文政2‐元治1)
幕末期の老中,下総関宿藩主。大草家に生まれ,のち久世広運の養嗣となり,1829年藩主となった。43年寺社奉行,48年西丸老中,51‐58年老中。60年(万延1)再び老中となり1万石の加増を受ける。首席老中安藤信正とともに公武合体政策を推進し,62年(文久2)2月には将軍徳川家茂への和宮降嫁を実現させた。しかし,この政策に対する反対も強まり,同年6月,老中辞職。8月には,在職中に失政があったとの理由で,安藤とともに隠居,急度慎の処罰を受け,加増分1万石を削られた。

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大辞林 第三版の解説

くぜひろちか【久世広周】

1819~1864) 幕末の幕政家。下総しもうさ国関宿藩主。1851年老中となり、安政の大獄に反対して辞職。井伊直弼の死後、安藤信正とともに公武合体策を推進。

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